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夫の企み

先日、仕事から帰ってきた夫が何やら改まって相談を持ち掛けてきた。

「ねえねえ、これちょっと良いと思うんだけど…」と始まった。

どうも欲しい物がありそうだと気づく。

うちの夫は割と倹約家だ。本当に欲しい物しか買わないし、買う時は結構考えてから買うタイプである。どちらかと言えば私の方が浪費家なくらい。

珍しいなと思いながら、夫の欲しいというものを見せて貰った。

【ZOOM】というフィールドレコーダーだった。

何か録音したいらしいのは分かったのだが、予想外の品だったので一応買いたい動機を伺ってみた。

「波の音やウグイスの音を録って、寝る前に聴きたい」と彼は言った。

私はそれを聞いて目が点になってしまった。

波の音やウグイスの音が聞きたいなら、ヒーリングミュージックで沢山音質の良い物が聞けそうなのに、自分でわざわざ録って聴きたいというのには驚いた。

本人曰く、そのフィールドレコーダーは性能が良さそうな上に、手が出しやすい価格で魅力的なのだそう。

にしても、波の音を録音する為に買うって…と思い、一応

「竹ざると小豆を買ってきてあげるから、
寝る前に自分で波の音を作ってみたらどうかな?」

と提案してみた。

しかしあっさり却下されてしまった。

イマイチ彼のやりたい事のイメージがつかめなかったので、更に詳しく話を聞いてみると、

「山や自然の中を歩きながら音を録りたい」

と言う。

それを聞いて、いつぞやに見た坂本龍一のドキュメンタリーを思い出した。

ニューヨークの街中を、レコーダーを持って歩きながら街の音を録音していた坂本龍一の姿が浮かんだ。

でも彼はその録音した音を自分の芸術作品の一部として表現に使っていたわけで、夫の場合は、何かしら発信の場を持っているわけでも無い。

この人はただ教授の真似事をしたいだけなのだろうかと呆れた。
開いた口が塞がらなかった。

正直要らないと思うのだけど、きっと私が了承しなければ、彼はいつまでもAmazonのそのページを見続け、折に触れて

「良いと思うんだけどなあ」

と言うに違いない。

それに私は病気を経て【やりたいことはどんどんやるべきだ】と常々家族や友人に言っている人間だ。

明日が来る事が当たり前じゃないと知っているから、
だから誰かがワクワクすることを止める事が出来ない。

何か彼の中に私がまだ理解しきれない企みがあるのかもと思い、

「買うならしっかり活用してほしい」  

と伝えた。

二日後、フィールドレコーダーが届いた。

夫は仕事終わりの疲れた体で、夜な夜な何か録音しているらしかったが、私は気にせずさっさと寝てしまった。

週末、レコーダーを買った事を思い出して実物を見せて貰った。

凄く丁寧なケースに入っていて、とてもきちんと作られている製品という感じがした。

ちょっと録音した音を聴いてみたくて、試しに夫と子供のピアノを録ってみた。

録音を聴いてみると、雑音はあまりなく、思ったより綺麗に聴こえた。

不覚にもワクワクしてしまった。

その後、夫と娘はウグイスの音を録りに行った。

しかし残念ながらウグイスの奇麗な鳴き声は録れていなかったようだ。
マイクの音が小さかったのが原因らしい。
夫は少し不満そうだった。納得行く音が取れなかったからだろう。

こういう時、結構執着する事を私は知っている。
案の定その後家族で少し遠出して、海に波の音を録音しに行くことになった。

潮干狩りも終わった夕方の浜辺は、散歩を楽しむ人や近所の家族連れで意外にも人出があった。

楽しそうに貝殻を拾って歩く娘の傍で、夫はおもむろにフィールドレコーダーを取り出し、マイクをつけて、波打ち際で録音を始めた。

なんとなく怪しげで結構恥ずかしかったので、私は少し距離をとっていた。

10分程経った所で、納得行く録音ができたらしく、引き上げる事にした。

帰りの車の中で早速録音した音を聞いてみる。
イヤホンだったので、順番にまずは娘から。

彼女はウグイスの時に音が録れていなくて落胆したからか、「おーっつ」と感嘆の声を上げた。

夫は少し自慢げだった。そして「遠州灘の方がもっと良い音がする」とさらなる期待を寄せた。

「そうか。そこに拘るのか」という新鮮な気づき。
「どれどれ」と私も聞かせてもらった。

さっき波打ち際で実際に聴いていた音とは違い、それはまるで【東映のオープニング】の様に、波が押し寄せてくる音に少し迫力を感じるものだった。

音声だけという点も人間の想像力を刺激している気がする。

私は不覚にも少し感動してしまった。

そして、

「これは日本海とかの荒波を録るともっと良いかもね」と感想を伝えた。

「でしょ。」と言いながら少し誇らしげな顔で運転する夫の横顔が見えた。

その時ふと気づいた。

どうやら私は夫の企みにハマってしまったようだ。


#エッセイ #エッセイ部門    #フィールドレコーディング #坂本龍一 #創作大賞2024






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