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「永遠」と「時間」
「永遠」において、選ばれている。
@エペソ1:4
エフェ 1:4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。
と記述されてあるように、「永遠」において選ばれている。
@Ⅰペテロ1:2
1ペト 1:2 すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。
そして、天地創造の際に、神の業は完了している。
@ヘブル4:3
ヘブ4:3 信じた私たちは、この安息に入ります。こう言われているとおりです。/「私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは決して私の安息に入ることはない。』」もっとも、天地創造の時に、神の業は終わっています。
@啓示録13:8
黙 13:8 地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。
*追記を要参照のこと
創造主は、永遠の領域におられ、時間を超越している。
人は、時間の領域に存在し、生かされている。
聖書の記述は、わたしたちに理解を促すように、「永遠」の視座と、「時間」の視座と、二つの視座がある。
「時間」の視座としては、これらの御言葉が該当する。
@創世記6:5-7
創 6:5 主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、
創 6:6 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
創 6:7 主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」
@Ⅰサムエル15:11
サム上 15:10 その時、主の言葉がサムエルに臨んだ。
サム上 15:11 「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。
永遠の領域におられる創造主が、悔やむとはコレいかに。
@詩編139:16
詩 139:15 私が秘められた所で造られ/地の底で織りなされたとき/あなたには私の骨も隠されてはいなかった。
詩 139:16 胎児の私をあなたの目は見ていた。/すべてはあなたの書に記されている/形づくられた日々の/まだその一日も始まらないうちから。
と、書かれているではないか。
すでに、サウルが失敗することを、ご存じだったのではないですか!?
と思うところ。
また、このような記述がある。
@民数記23:19
民 23:19 神は人ではないから、偽ることはない。/人の子ではないから、悔いることはない。/言ったことを、行わないことがあろうか。/告げたことを、成し遂げないことがあろうか。
@エレミヤ4:27-28
エレ 4:27 主はこう言われる。/全地は荒れ果てる。/しかし、私は滅ぼし尽くしはしない。
エレ 4:28 このために、地は嘆き/上なる天は暗くなる。/私が語り、私が企てたからだ。/私は悔いず、思い直すこともない。
悔いることは、ない。
しかし、サウルを王にしたことを悔いている。
@Ⅰサムエル15:29
サム上 15:29 イスラエルの栄光である方は、偽ることも悔いることもない。人ではないので、悔いることはない。」
@Ⅰサムエル15:35
サム上 15:35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルに会うことはなかった。サムエルはサウルのことで悲しみ、主はサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。
同じ章の中で、悔いることはない、悔やまれた、とある。
さて。
聖書は矛盾している、創造主は矛盾している、ということもできる。だが、それでは表層をなぞっただけの、浅薄な話で終わる。
「永遠」の領域におられるお方(創世記21:33)は、、時間と空間の外におられるお方である。
そのお方がご自身を、被造物である人に表現されようとして、あたかも「時間」の中に存在するように、聖書は記述しているのだ。
キリスト者はそれを理解し、「永遠」の視座と、「時間」の視座と、両方を持つことができる。
また、それを持つように望まれている。
「永遠」においては、すべてが決まっている。
人の自由意志など、幻想に過ぎない。
そう言えば、人は神のロボットなのか、神はロボットを作ったのではない、人に自由意志を与えたのだ、と反論されるだろう。
そう考えたくなるのは、「時間」の視座においては正常な思考。
だが、それは「永遠」の視座ではない。
聖書は「黙示録」において(正確には「啓示録」だ)、そこで歴史は完成している。
ということは、永遠の領域から見る「時間」は、すでに終わっている、ということだ。
世界中のキリスト者がどんなに熱心に祈ったとしても、聖書の啓示録の記述は変わらない。
創造主のご計画通りに「時間」は進み、歴史となる。
創造主にとっては、アダムに息を吹き込んだのも、ノアの洪水も、モーセの紅海も、アブラハムのイサク献納も、ダビデのゴリアテ退治も、ネヘミヤのエルサレム再建も、イエスの誕生、試み、十字架、昇天、その後の聖霊降臨、パウロの殉教、ヨハネへのパトモスでの啓示、すべてが「現在」。
それが、「永遠」の視座。
すべては、すでに決まっている。
キリスト者は、そこに安息する。
@ピリピ3:20ー21
フィリ 3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
フィリ 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。
「永遠」においては、すでに天に国籍(市民権)がある。
「時間」においては、待ち望んでいる。
この、ふたつの視座。
定まっていない将来のために、今を生きるのではない。
すでに定まっている「永遠」にふさわしく、「時間」の中で生きる。
キリスト者には、それが望まれている。
@申命記30:19-20
申 30:19 私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
申 30:20 あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。
啓示録22:10-12
黙 22:10 また、私に言った。「この書の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
黙 22:11 不正を行う者はさらに不正を行い、汚れた者はさらに汚れた者となれ。正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ。
黙 22:12 見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
追記
我が尊兄であるDrルーク唐沢さんより、コメントいただきました!
ありがたくコチラに追記させていただきます。
ちょっとコメントしますと、啓示録13:8は、ほとんどの邦誤訳で「天地創世の時から、屠られた小羊の書に名の書かれていない者」とカンマを入れてます。これで「天地創世の時から」が「名前の書かれていない者」を修飾することになります。
が、英訳では”whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. ”と、「天地創世の時から屠られた子羊」となります。「天地創世の時から」は「屠れた小羊」にかかるのです。つまり十字架は天地創世の時にすでにあったのであり、小羊も屠られていたのです。その霊的実際(サブスタンス)が時系列の中で実体化されたのが二千年前のあの十字架です。
ですから、それはYHWHのフェイスによるのです。"pistis"を「信じて仰ぐ」とする向きはそれが理解できないので、カンマを入れるのですね。残念ながら岩波訳もですが。
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