90s Hiphop名盤 / Notorious B.I.G.「Ready to Die」(1994)
1994年9月13日に発売された本作はヒップホップ史上に残る名盤としてだけでなく、「ローリング・ストーン」誌が選出する全ジャンルが対象の「All Time Best Album 500」と「All Time Best Debut Album」でもランクインするなど、世界中で愛され続けている名盤であり、本作が後世に残した影響は、語り尽くせないほどに大きいものだ。
まず、この作品を理解する上での重要なバック・グラウンドとしてリリース当時、ヒップホップの本家たる東海岸のヒップホップ・アクトたちはセールス面では西海岸のギャングスタ・ラップに大きく水をあけられており、
その格差は本作の約半年前にリリースされた不朽の名盤にしてニューヨーク産ヒップホップの金字塔、Nas「Illmatic」( 1994年4月19日、コロムビア・レコードよりリリース)をもってしても埋められないほど大きなものだった。
そんな本家の苦境にあってNYはBrooklyn出身のBiggie Smallsが、当時全盛期を迎えていた敏腕プロデューサーSean “Puffy” Combsの完璧な指揮のもと、鮮やかにNY産ヒップホップの復権を示したのが本作だ。
ちなみに当時R&Bグループ、Xscapeはセールスをやっかんだのか「ビギーは偽物よ」とか言っていたという記事をどこかで読んだ記憶がある。Xscapeごときがである。
ともあれ、本作の前年に彼が2 PacとのFreestyleで披露したあまりに有名な一節、「You can’t touch my riches, Even if you had MC Hammer and them 357 bitches」を踏まえると、
MCハマーなどではない「本物の」ラッパーがなんら薄めることなくハードに、時にセンシティヴ、かつリリカルに、決してセル・アウトすることなくヒップホップど真ん中のクリエイティヴな作品を作り、しかも商業的成功まで収めるという黄金の方程式が聖地NYから生まれた歴史的意義は大きい。
その系譜は2年後Jay-Z「Reasonable Doubt」へと受け継がれ、2021年現在でも世界中のMCたちが渇望してやまないRealなヒップホップの理想形が、ここにはある。
1994年リリース当時の風潮
今となっては信じ難いかもしれないが、「Ready to Die」がリリースされた当時、本作は「ややポップな作品である」と捉えていたHiphopリスナーも少なくはなかった。
独自の詩的表現でリアル・ヒップホップの求道者のようにも映ったNas「Illmatic」に比べると、本作の絵を描いたプロデューサー、Sean “Puffy” Combsの金儲け主義、Mary J. BligeをはじめR&Bシンガーとラッパーを組み合わせた楽曲も躊躇なく手がける姿勢は、ややヒップホップを薄めているようにも見えていたのである。
未だに世界中のナイトクラブでヒップホップリスナーを熱狂させる本作収録の「Juicy」がシングルカットされ人気を博したが、当時としては聴きやすいR&B寄りの作品であることを踏まえてバランスを取るため、DJ Premier手掛けるハードな質感の「Unbelievable」をB面に配置するなど、あざといプロモーション戦略は見事という他ないのではあるが。
西海岸ヒップホップとの親和性
西海岸のギャングスタラップ好きの中にも「ニューヨークのヒップホップは聴かないが、ビギーだけは好き」というファンは少なくない。ビギーのストリートから出てきたハスラー然としたキャラ立ちと過激なリリックスに加えて、当時の東海岸のトップ・プロデューサーたちがDJ Premierをはじめ、ビートのフリップ(組み替え)、サンプリングソースの数秒間の抽出、誰も聴いたことのないようなレコードのDig。といった、音楽を深く掘り下げて加工する方向に美学を見出していたのに対して、本作に収録された「Juicy」でのMtume「Juicy Fruits」使いやIsley Brothers「Between the Sheets」をそのままサンプリングした「Big Poppa」といったわかりやすくメロディアスな大ネタ使いは、メロウ・ソウルやファンクをそのままサンプリングするサウンドが主流であった西海岸のヒップホップともリンクするところがあった。
ちなみに「Juicy」のシングル盤には元ネタをフリップしたPete RockによるRemixが収録されており、大ネタを扱うことによる反発への対策、東海岸のヒップホップ・ファンへの目配せと思えなくもない。
そして、「Juicy」「Big Poppa」でのわかりやすいネタ使いの反面、DJ Premierが定番ブレイクビーツ「Impeach the President」を巧みにフリップした「Unbelievable」のような東海岸らしいとしか言いようのないクリエイティヴなサウンドも同居していた点は特筆に値するだろう。
総括すると、アルバム「Ready to Die」とは東海岸発のフレッシュなギャングスタラップであり、ニューヨークらしさとL.Aらしさ、すなわち東西のヒップホップファンを共に唸らせる品質とバランス感覚を兼ね備えていたのだ。