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ディストピア的カンニングハンター


私は現在某中学受験塾で講師をしている。集団授業もしたりしているのだが、今回は割と誰でもやったことがある模試監督の話。

模試監督をすると一番神経を使うのは何か? とまあ問題提起してみてもタイトルの通りである。カンニング。これが一番神経を使わされる。

もちろん発見するためには常に監視しなくてはならないというのもある。だが、厄介なのはむしろ発見した後の話だ。特に小学生なんて落ち着きが無いの延長でキョロキョロするような子供もいる。だからいきなり「カンニングしただろ」という訳にはいかない。だからまずは近づいたりして圧をかけたりする。そこから生徒と私の一対一の手合いが始まる...訳ではない。監視対象はその生徒だけではないのだから、中々さじ加減が難しいところである。

さて少し話は変わるが、カンニングというのはそもそもハイリスクローリターンである。

カンニングペーパーや参考書といった比較的信頼できるものを利用するならともかく、カンニングというのは前や隣の人の答案を覗き見るパターンが大部分である。果たしてその前や隣の人は本当に正しい答えを書いているのだろうか? うっかり知らない人の答案を覗き見て、その人が自分より成績の悪い人だったら? 塾ならば顔見知りも多いだろう。だから成績のいい人くらい見分けがつくと思ったそこのあなた。実は私自身がまだ小学生だったころ恐ろしい話を聞いたことがある。それを語ったのは私の通っていた校舎でずっとトップに居続けた強者だった。実際に受験本番でも灘、開成、筑駒と全て合格していった正真正銘の実力者である。だからカンニングしたのはもちろん彼ではない。彼はカンニングされた側だった。そして彼はそのことに気づき何をしたか? 何と彼はわざと違う答えを書き並べ、テスト終了1分前に全て正しい答えに書き直したらしいのだ。その彼の行いの「被害者」が誰だったのか私は知らないが、自慢げにそれを語る彼の顔を見ながら何と殺伐とした話だろうかと思ったのは印象に残っている。まあともかく人の答案なんてあてにならないものなのだ。

リスクについても色々挙げられるだろう。大学受験ならカンニングによる逮捕も有名な話だろう。中学受験で逮捕などということにはならないだろうが、そもそも小学生にとって大人に目を付けられるというのはそれだけでそれなりのダメージになるものである。カンニングしたことが広まって噂になれば、人間関係に計り知れない亀裂が走ることも容易に想像できる。

もちろん小学生だから、最初はそのことに気づかずカンニングを試みる者は出てくる。あくまで想像だが、「〇〇点以上取ったら◇◇あげる」とかそういう目先の利益につられることもあるのかもしれない。だが、それもばれそうになると上に書いたような計算が働いて諦めるというのが普通だろう。


だが、偶に何度圧をかけられてもめげずに試み続けるような事例に遭遇することがある。実はついこの前の模試監督でそのパターンに遭遇した。近づくと明らかに挙動不審な態度になって、問題用紙を凝視し始める。それを確認して距離を取るとまた隣の机を覗き込もうとする。また近づくと挙動不審になって... その繰り返しである。

そんな駆け引き(?)をしながら私はふと考えた。これは果たしてその子が上の計算ができないような子供だからなのだろうか?

もちろんその可能性は否定しない。そういうこともあるだろう。だが、私の脳裏に浮かんだのはまたまた自分が小学生だったころの記憶だった。中学受験というのはなかなか特殊な世界である。高校受験や大学受験と違い、ほとんどの場合、親の意志で受験は始まる。だから最後までやる気が出ないような生徒も居たし、耐えられなくなって辞める生徒も居た。一方で所謂「教育パパ」や「教育ママ」を親に持つ子供もかなり多かったのを覚えている。ここ数年で虐待の取り締まりは厳しくなってきているようなので、現状がどうかは分からないのだが、当時はそういう家庭の子供にとって試験会場というのは洒落ではなく戦場だったろう。彼らは良い点数を取らないと家に居場所が無くなる。食事を抜かれたり、手を挙げられるということも決してあり得ない話ではなかった。そういう子供にとってテストというのは点数を通して実力を測るというような生易しいものではない。明日の糧を得るための手段なのである。

明日の命を繋ぐために必死の子供とそれを監視して抑え込もうとする(試験会場の)「管理者」。何かディストピアみたいな構図だなと監督をしながら私は思った。このタイトルの由来である。(冷静に考えてみると、私が監視したその生徒がそういう家庭の子供である確率はそう高いものではないだろう。妄想入っているのは否定できない...)

一般的にこういう構図で応援されるのは「管理者」ではなく、それに抗う者の方だろう。私もどちらかというとそちら寄りだ。「体制側」というのはどうも応援する気になれない。だがそれでも私は「管理者」の振る舞いをする。何でそんなことをするのかというと、それは単純な話で私はお金をもらっているからだ。お金をもらっているから「管理者」側に回って、私は必死の子供を押しつぶしている。そんな可能性に思い至って、でもやっぱり私は終始変わらぬ態度で業務を続けた。


そもそもカンニングとは悪ではないか。そういう論理もあるかもしれない。だが、冷静に考えてみるとそこで言う「悪」とは誰の視点だろうか? 

確かに他人の努力の結晶である答案を写すというのは成果の横取りであり、「ズルい」行いだろう。だが、そもそも中学受験塾というのは「ズルい」コンセプトの組織なのだ。親の意志と資金力の両輪を持って生まれた子供が、そうでない子供の何倍もの教材と勉強時間を与えられて、より質の良い教育を受けられる中学校高校に入学する。そして大学受験で良い大学に入っていく。これは「ズルい」話ではないだろうか。私自身もその恩恵にあずかった一人としてそう思う。言うなれば中学受験塾というのは親のお金と引き換えに子供にズルをさせる機関なのだ。もちろん当時の私だってこんな話をされたらキレるだろう。何せ本当に大変なのだから。小6の夏休みなんて毎日15時間勉強させられたのである。今思うと正気の沙汰ではない。だが、そんな長時間の勉強をさせられる環境があること自体がズル。意地悪な見方であることは百も承知だが、それも一つの視点ではないだろうか。


色々はっきりしない話になってしまった。

だが、「カンニング? よし取り締まろう」みたいに単純化をする前に一回考えておきたかったので、良い機会にはなったかも。

ただ残念なのはここでの結論に拘わらず、私はまた模試監督の仕事を引き受け、また同じように業務を遂行するであろうことが分かっている点である。考え付いたことを実行できる人間の偉大さを思い知る機会にもなったかな。


締めはこのお言葉を借りて

まったく、妙な話さ。ときには、正しいことよりまちがったことをするほうがいい場合もある。

(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)


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