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異質なほどの男性器

生きている中で、「いやあ、これはちょっと笑」という場面に私はよく出逢う。

B級SF映画のやり過ぎ演出かもしれないし、勧められた服があまりにも好みじゃなかった時かもしれない。

一方で、「いやあ、これはちょっと…けどなんか、嫌いじゃない。好きかも。」のように、ほんの少しの嫌悪感もじわっと包み込んでしまうような、曖昧な安心感を与えてくれるような、不思議だけれど排他的な、毒を持った瞬間に出くわすことも少なくない。

いずれにせよ、「これはちょっと笑」の場面は私たちの不意をついて、藪から棒にニョキっと首を出す始末だ。


もう何年も前の話だけれど、古本屋で見つけた谷川俊太郎さんの著書の中に、

「男は浴室でおちんちんを洗っているが
      それはまるで旧約聖書の一場面のようだ」

という表現があった。

当時中学生だった私は、縦文字のおちんちんで文学的に吸収されてしまう理屈の曖昧さと、その圧倒的存在感にぞわわわーっと戦き、
「文字って、詩って、こんなに自由なんだ」
と思わせてくれたきっかけでもあった。

(官能小説というジャンルもあるが、この場合はまた別物だと私は考えている。)

⏰ 𓈒 𓂂𓏸



最近家族でホラー映画を見ることになった。
視聴した作品はかなりグロテスク寄りのホラー映画で、バレエ学校が舞台の、終盤は思わず目を背けてしまうレベルの人体系グロ作品であった(作品名忘れちゃいました、スミマセン…)。

人体の腕やら足やらが本来向くべきでない方向に曲がりながら少女が踊り続け(ウッ)、血の描写も多い中、そのグロテスクなシーンの中でなんと、穏やかなクラシック音楽が流れたのである。

「あ、ほぇー。なるほど。」

と、その時私は谷川さんの「おちんちん」を唐突に思い出し、腑に落ちた。

本来その場にはいるべきでない存在。
というか、そこでその組み合わせなんだ!?の、一瞬の違和感。意外性。
なのに、どうしてかしっくりくる悔しさ。

谷川さんの作品には、目を使って縦文字を上下に読んでいる時に突然現れる異質の存在。
男性器のサプライズ登場に読者は一度反応が遅れるものの、前後の文脈から読み取れるその場の回想や意図、圧倒的な存在感を放ちつつも「もじ」として文学的に処理できてしまう彼の文才に、まるでずっと前からそこにいたかのような、どデカい顔をして「おちんちん」は鎮座するのである。

一方でグロテスク映画の方も、これまた本来心臓をガシッと掴み、ブンブン振り回した挙句やわらかいチクチクした羽毛で擽られるような不快感を生む「グロさ」を、荒波を鎮めるような壮大な「クラシック」音楽が突然すべてをペロリと飲み込み、「美しさ」へと昇華して涼しい顔して魅せつけてくるのである。
(あとから考えると、バレエ作品だったから敢えてクラシック音楽だったのかもしれない。
けれど、他のホラー作品でも、ミステリー映画の猟奇的な殺人シーンでも、クラシックやオルゴール音楽が流れる場面を見たことがあるので、この組み合わせは案外あるあるなのだと思う。)


だが両者とも、
あーなるほどな。そっか、そうなんだ。
と、ほぼ強制的に、反射的に頷いてしまう。

そこへの安直な疑問とか、難しい違和感だとかを考える前に、これが芸術なのだと堂々とした面持ちで私を作品の中にずるずると引きずり込み、永遠に閉じ込めてくれる。


グロテスク映画とクラシック音楽。
文学作品と男性器。


流行りのバンドの歌詞にねじ込まれた下品な表現を、まるで文学的表現みたいな、言語化してそれっぽいように音楽に乗せればいいみたいな、そんな気持ちわるさがダメだったとき。

わたしは彼の「おちんちん」を

グロテスク映画の「美しさ」を

唐突に思い出しては安心するのだ。

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