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27歳女性 セクハラについて考えてみる

セクハラってどっからなのー?という議論がされることがありますが、私もずっと難しいなぁと考え続けていています。私は比較的下ネタは好きではない方の人間なのですが、Netflixのトークサバイバーseason2を見ていてちょっと考えさせられました。

(※以下の段落だけ少しだけネタバレ含みます)
少し下ネタばかりでしんどいな、と思っていた時に、女優さんが下ネタ続きなのが気まずいから他の話題が欲しい!!と心の叫びを訴えてくれました。
その後芸人さんたちが鳩のネタを連発していて、下ネタ以外だと鳩の話しか出てこないのかよぉと笑えました。

もちろん全体的には下ネタ以外の面白い話もたくさんありますが、下ネタトークが始まると連鎖的に下ネタがどんどん出てきます。みんなやっぱり好きなんだなと思いますし、厳しめ下ネタポリスの私でも面白いと思う下ネタトークがいくつかありました。私はキャラクターもあってか笑い飯の西田さんぐらいの話がちょうどよく笑えるのですが、あの感じも不快に思う人もいるのでしょうね。んーーー、難しいっ!!
このことをきっかけに最近色々考えたので、セクハラについての自分の意見を整理したいと思います。下ネタポリスのお説教をきいてくれ!とは思っていないです。(そう思われたくないです。。。)ただここで少し立ち止まって、日本で生きる一般アラサー女性の考えを覗いていってほしいです。


◇全社メールで下ネタ

TV業界で働いている友人が、職場でがっかりした話をしてくれました。
彼女の職場にとてもクリエイティブで 時代に沿った企画を生み出している、
ベテランでエースの男性ディレクターがいるそうなのですが
ある日、彼が下ネタ混じりのメールを全社メールで送り、それが女性社員をざわつかせたそうなのです。私個人としてはその内容は会話であればまだ笑って許されそうだが、全社メールとなると話は違うかな。。。と思いました。彼は多分ユーモアとして用いた言葉だったと思いますが、女性社員はそうは思わなかった。友人の先輩が、女性社員が不快感を抱いていると本人に伝えたところ「こんなことも言えない世の中になったのか」と仰ったらしいのです。友人はクリエイティブな仕事をしているのにそんな時代遅れな考え方なのかとがっかりしたようです。
私もそれに関しては「はい?」と思いました。

きっと昔はもっと自由に発言できたと思うのですが、それは「不快に思う人がいなかった」のではなく、「不快に思う人がいないことにされていた、我慢を強いられていた」ということだと思います。少し厳しいことを言うかもしれませんが、それを理解せずに言っているのであれば浅はかですし、理解したうえでの発言であればとても傲慢だと思います。

◇学生時代の私的セクハラ

私が大学生の頃の話ですが、部活の男性の先輩から外国人女性の(割とハードめな)ヌード写真をLINEんで送られたことがあります。今の私であれば(やはりドン引きはしますが)まぁこういう人もいるよね。とさらっとその人への落胆で終わると思います。でも当時はさっきまで高校生だったみたいな若者でしたし、部活にも一生懸命だったのですごくショックでした。ネガティブな思考を自分に向けてしまい、自分が軽んじられているように思えて悲しくなりました。もっと悲しかったのは、「どうしてそんなことをするのか」「私は不快だった」と話しても誰も周りは分かってくれなかったことでした。
あの場所ではそれが「普通」で、大したことではなかったのです。私はひとり絶望しました。これを笑ってやり過ごしてしまったら、大切な何かが崩れ落ちてしまうと感覚的に思いました。そして、この事は当時の私が部活を辞めるのに十分な理由となりました。

◇社会に出てからの私的セクハラ

社会人になっても、下ネタやセクハラはそこら中にあります。話に乗らないと空気が読めないと非難の目で見られ居た堪れない気持ちになります。
私は体に触れられることも好きではなく、その人の人間性や場面によっては胸がぎゅーと苦しくなります。でもやめて欲しいというのは勇気がいりますし、大事にならないように冗談まじりに笑って断れば、逆に喜んでいると思われることもあります。私は疲れて、だんだん何も考えないように、何も思っていないふりをするようになりました。それが大人になることだと思っていました。でも我慢していつか慣れるなんてことはありません。自分は大丈夫だ、上手くかわせてると思っている反面、どこか自分が消耗されているように感じ、無価値であるかのように思えてきました。
そして声を上げなければ、この人には言ってもいい、やってもいいのだと誤解され、止むどころかエスカレートしていきます。私は長い間悩みつつ、なんとなく周りの空気に合わせて誤魔化していたので、「あなたはそういう(触られても平気な)人だから」と身近な人に言われた時は、大変勝手な話ですがとても傷つきました。まぁそう思いますよね。伝える努力を途中でやめていたのですから。

私は何のために我慢していたのだろうか。

◇声を上げない人が悪い?

昔、私の大切な人が新幹線で痴漢にあったことがありました。怖くて声を上げられなかったそうです。怖かっただろうな、悔しかっただろうな、トラウマになってしまうのではないだろうか、とやり場のない怒りとやるせない気持ちでいっぱいになりました。

そんな彼女にこんな一言を言った人がいたそうです。
「どうして声を上げなかったの?もう子どもではないのだから嫌ですと言わないといけなかった。大人なのだから伝えられるでしょう?それに新幹線の自由席を使うということは、隣に誰が座っても構わないということなのだから、そういうリスクを負っていると理解しなければいけない。」理論はわかりますが、それを聞いた私はかなり怒り心頭しました。彼女は殺されるかもしれないとさえ思ったのに、どうしてそんなことができようか。

そんな考え方をする人は私の周りにはいなかったので、私の中に衝撃と後の考え方に影響を与えてくれたので感謝はしていますし、彼女にも少しいい影響になったかもしれないとも思いましたが、その事を踏まえても、彼がその言葉を当時の彼女に投げかけたことを私は今でも赦せないでいます。

◇何が言いたいかと言いますと

これまで、私の見聞き体験したことをお話ししましたが、私がこれらのことを通して思うことは3つあります。

①セクハラ感は千差万別ということを意識する

セクハラに関する感覚は人によって違う事を意識すべきということです。
どこからセクハラかは受け取り方次第とよく言われますが、本当に千差万別だと思います。自分の常識は相手の非常識かもしれません。えぇ、じゃあどうすればいいの?となるかもしれませんが、「人によって違う」ということを理解しておくこと自体が大切だと思います。
事前にこれはセクハラだ!と思いながら発言していたら現行犯逮捕ですが、
そんなつもりないのに〜という方は誰かに指摘されない限りわからないのだと思います。でも私の記事も含めこういう内容を見聞きしたり、直接訴えかける人がいたら、頭ごなしに反論したり、自分の擁護に回ったりする前に一度耳を傾けてあげてください。完全に理解する必要はないです。そういう考えの人もいるのだと配慮してあげて欲しいです。そうやっていけばこれは「もしかしてセクハラなのかも?」を発言の前に自問自答することができると思います。そして悪気がなかったあなたの気持ちも説明すれば、違う感覚の2人でもわかりあうことはできるのではないでしょうか。

私もある程度歳を取り、年下の人増えてきたので、「これはセクハラにならないかな?」と気をつけるようになりました。もちろん年下に限った話ではないですし、性別も関係なく考えるべきだと思います。

②自分のことは自分で守る

当たり前だと思う方がいるかもしれませんが、被害者が忘れがちなことは、
自分のテリトリーは自分で守るということです。痴漢をされた人に「大人なのだから嫌ですと言うべきだった」と言った方の話をしましたが、そこで私は無言は肯定になりうるということを改めては理解しました。潜在的に、言わなくてもわかってもらえる、わかってくれない人が悪いんだと思っていませんか?私もかつては思っていました。でも今ではそれは本当に危険な考え方だと思います。

相手はあなたが嫌がっていることは知りません。きっと悪気はなくあなたを傷つけています。あなたが何に嫌悪し、やめて欲しいのかはあなたにしかわかりません。嫌です。やめてください。言い続けないといけないのは大変です。本当に途方もなく骨が折れる作業です。でも もしその相手とこの先も一緒にやっていくつもりであれば、我慢しない事をお勧めします。その我慢した状態が、その人たちにとっての「あなたの普通」になってしまうからです。苦労して言っても伝わらないかもしれない、でも言わなければ絶対にわかってもらえません。

直接伝えられない場合は、第三者に助けを求める事も一つの方法です。誰かが気づいてくれることはあまり期待できませんが、自分から助けを求めれば力になってくれる人もいるはずです。これは甘えではありません。どうか自分のことを守る選択をしてください。

③自分の居場所は自分で選ぶ

セクハラは根絶できないが自分の属する場所は自分で選ぶことができます。声を上げる事を推奨しましたが、どうにもならない事もあります。そんな時は考えてみてください。そこは本当にあなたがいるべき場所ですか?きっとあなたのもっている常識とかけ離れたものを常識としている環境かもしれません。これはセクハラでなくても言える話なのですが、仕事だから仕方がない、もしくは相手が大切な人なのであれば、向き合う必要があるかもしれない。でも「ここにしか居場所がない」「この人とうまくやらなくてはいけない」と思い込んでいる場合もあります。

ある本にこんなことが書いてありました。
子どもは「学校が世界の全て」と思ってしまいがちなため、学校でイジメられてたり恥ずかしい思いをしたりすると「世界の終わりだ」と感じてしまう。そういった時は学校や家庭以外の第3の場を設けてあげるとその「世界の終わり」から抜け出せる。

私の大学時代の部活もそうでした。大学生活で一番力を注いでいたので、この場所がなくなったらどうしよう。キャンパスで元チームメイトに会ったら嫌だな。。。と先のことを心配していました。でもいざ辞めてみると、他にも大学で打ち込む事はあるし、チームメイトに会っても過去の人だと思えました。
自分の今の環境が全てだと思ってしまいがちですが、他のコミュニティに参加したり、勇気を出してその場所から離れてみると、なんだ全然大したことないじゃん。となることがあります。一度思いきって離れてみるのもいいと思います。

最近飲み屋で初めて会った人達と3軒目に行く道中で、一緒にいたおじさんが通りすがりの人と喧嘩になりかけたことがあって、その時は「そういうのは他でやってくれよぉ」と思いました。私の言う「他」は「他の人たち=酔ってだる絡みが日常の人たち」と言う意味だったのですが、傍から見れば私もその「他の人たち」の一員ですよね。私がそこにいることを選んだのですから。

自分がいる場所は自分で選べます。なかなか難しいかもしれませんが、手放してみるのもいいですよ。これを一回できると本来必要のない執着がなくなり、自分のことを大切にでき、とても心が健やかになります。

◇余談ですが、

40半ばの男性と3ヶ月ほどお仕事でご一緒していた時期があったのですが、
その方、話がうまくとても面白かったんです。その方はお話が好きなので(私もですが)、仕事に関係ない話もよく話し、楽しかった事を覚えています。でもその2年後ぐらいでしょうか、男性の同僚がその方とお仕事を一緒にしている時期があり、「あの人、下ネタしか話さないよな」て言ったんです。私はとても驚きました。その方、私には1ミリも下ネタを話さなかったんです。私は大袈裟かもしれませんが、感動すらしました。笑
思いやりもあり面白い人は、下ネタを用いずとも場を盛り上げることができるのではと思いました。

◇(私も含め)みんなが幸せであって欲しい

わかる!と思われた方も、え?こんな事で?と思われた方もいらっしゃると思います。もしあなたが後者であれば共感はしなくてもいいです。でもこういう価値観で生きている人がいると言う事を頭の片隅に置いておいてくれたら嬉しいです。
もし苦しんでいる方は行動してみるのもいいと思います。私も多少はしんどい気持ちをわかっているつもりです。なかなか言えないですよね。
おっと、、、私が「できない」という言葉を使うと、母に「この世にはやるか、やらないか しかない」と注意されます 笑
母の考えを借りれば、「言えない」ではなく自分で選んで「言わない」のだと思います。「手放せない」のではなく「手放さない」ことを選んでいるのだと思います。どれも自分の選択です。

その場の空気を悪くすることを心配していますが、
我慢して傷ついている自分のことは心配にはなりませんか?
自分を理解できるのも守れるのも自分だけです。
自分の味方になってあげてください。

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誰も傷つかないようにと気をつけて言葉にしているつもりなのですが、私の考え方を書きたいと思っている以上、全ての人に寄り添う事はできません。
どうか誰も嫌な気持ちにならない事を願います。


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card : 褐色の髪のオダリスク
/フランソワ・ブーシェ

ルーヴル美術館展 愛を描く より

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