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合理的思考の結果するところ

 寒い冬を乗り越え、今年の春もまた大学受験生が学生へと身分を更新した。多くの新入生たちが意気揚々と正門をくぐり抜け、キャンパスライフへの扉をたたく。見ているこちらも初心を思い出す。そして、私もまた一つ学年を重ねてしまった。今年は、就活、インターン、卒論に向けた準備などに追われるのだろうか。案外、新入生にも負けないくらいの不安と悩みがある。

 さて、首都圏の富裕層を中心に、早期教育がかなり普及している。かけ算九九は幼稚園のうちに、習い事はピアノからそろばんまでなるべく多く、週に5日は通おうというふうに。人生ではじめての受験は幼稚園に入るために。かわいいわが子に、良い人生を送ってもらいたいとの願いからであろう。ただし、ここには大人の論理から子どもの人生を見ているという危うさがある。早め早めにということができるのは、答えがすでに用意されているからである。学習指導要領は教える内容、時期を非常に細かく規定している。つまり、子どもたちが生まれたときには、すでに進むべきレールが示されている。そして、親はその過程を経験済みである。さらに、そのレールを速く駆け抜ければ、恵まれた生活を送ることができるだろうと思われる。効率至上主義が前提とされるならば、その合理的結論はまさしく早期教育である。しかし、己の人生はいつも一人称の視点で眼差すものだ。

 効率がよい、あるいはリニアモーターカーほどのスピード感でレールを駆け抜けるということは、常に目標、あるいはゴールをめがけて直進することであり、それ以外のことに注意が払われないのだ。到達点と結果しか見えていない人生はまことにつまらない。人生ゲームが楽しいのは、友達が借金をしたり、自分が成り上がったりと、その過程に起伏があるからである。予期せぬことが私たちを非常に苦しめもするし、逆に大きな喜びをもたらしたりすることもある。緻密な計算に基づいて、人生ゲームで勝利をおさめようとする者には次回のお誘いがあろうはずもない。

 似たような問題の一つに、学校の勉強は自分の興味のあるものだけでいいという主張がある。たとえば、将来エンジニアを志す者には国語は不要であるなんていうように。所期の目標の達成のために必要な科目、必要な分野だけを学び、最短距離で目標の職業に従事する。しかし、そもそもいったいどれだけの人が自分の希望する職につけただろうか。わが子の人生を見守る親は痛いほどよくわかっているのではないか。そして、専門分野に固執した結果として招かれたのは3.11の原発事故ではなかったか。あの事故以来、しきりにサイエンス・コミュニケーションが叫ばれるようになった。専門家は、学会では評価されこそすれ、自分の専門分野以外に関しては全くの素人である。教養が、物事を複眼で捉えることだとするならば、専門分野だけではいずれ限界が訪れる。その意味で、学校教育は主要5科目を課したのだと思う。

 

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