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人は弱く、残酷で強かなもの

他人の不幸は蜜の味…と言う言葉がある。
他人の不幸を面白がる、ネタにして楽しむ…という意味だが、そこには他人の不幸を知ることで、己が優越性(優位性)を見つけ「私の方が相手よりも幸せだ」と安直な満足感に浸るがための行為(心理)でもある。相手に降りかかった災難、災厄が「自分に起きたことで無くて良かった」と言う安心感。
そんなものにどれほどの意味と価値があると言うのだろう。
けれど、同情からの「まあ、可哀そう」という乾いた言葉にも、偽善と欺瞞に毒された同様の響きがある。

ほんの150年ちょっと前まで、死刑は娯楽だった。江戸時代でも、火刑やさらし首、磔の刑は庶民への見せしめを兼ねたショータイムでもあった。市中引き回しなんてのもあったし、首まで埋めた罪人の首の前に鋸を置き、「どうぞ、好きに鋸を引いて下さい」として、通りすがりの一市民に参加させる系処刑方法などもあったくらいだ。

ローマ時代でも、コロッセウムは試合では無く、市民たちに様々な「死」を娯楽として提供する施設だった。民衆は歓喜して、奴隷や異教徒たちが惨殺されるのを見ながら飲食にふけったものだ。

「市民から君主や政治への不平不満を逸らしておくためには、極上の娯楽を与えておくのが一番良い方法だ」そう言ったのはどの皇帝だったか…すっかり忘れてしまったが。
とにもかくにも、狡猾な皇帝たちは「人に与える残忍な死」を刺激として、市民たちに与えることを忘れなかった。いやさ、別にローマ人だけが、そのようなショータイムに熱中したわけではない。世界中のありとあらゆる文明、国々で、処刑は人の娯楽として饗されていたのだから。

世の中には理不尽な出来事は腐るほどあって、狂人も減らないし、ルールを守らない人も増えるばかりだ。

自分自身の安全を優先するのが悪いとは思わないし、彼らを非難する権利も資格も私には無いが…一人二人では無く、その場で大人が大勢いたのならば、皆で何とか出来なかったものかとあれこれ思ってもしまう。

身の危険を感じたり、怖くて何も出来なかったと言うのなら、それは致し方無いが…だが、驚くべきはスマホで撮影する人が何人もいたということである。

その時、「働きマン」2巻1話のこのカット、シーンを思い出してしまった。図らずも10数年前に携帯が普及した頃、コミックの中で警鐘が鳴らされていたことが現実になったなあという感じ。いやさこの事件の前からも度々あって、指摘されていたことだが。

働きマン2巻の最初の話
トンネル火災事故の現場を芸能人を撮るかのように
野次馬精神で写メのシャッター押す人々
一人も助けようとはせず、むしろ消防の人たちの邪魔をし
無表情にカメラの中の画像を覗く不気味な集団だった

嫌な世の中になったなあ、と思う。

ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。船長はそれぞれの外国人乗客にこう言った。 

アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないでください」
日本人には「みんな飛び込んでますよ」

早坂隆『世界の日本人ジョーク集』より

さしずめ、
日本人は一人が撮っていたら、自分も撮る…で、一人が逃げたら、自分も逃げる…で、一人が助けたら、ようやっとそこで加勢する…のかも知れない。

子供の頃…小学校2年の夏休みだったか…そろばん塾に行くために代わりかけ信号を急いで渡ろうとしたとき、脇腹に激痛が走った。
犬に嚙まれたのだ。
大型犬だった。土佐犬?くらいはあったろうか…

小柄だった私は簡単に引き倒され、噛まれたまま、ブンブン振り回された。夕方の交差点には、人も車もたくさんいて、商店に買い物に来た人など、遠巻きにたくさんの人垣が出来た。恐怖に顔をひきつらせた人、驚いた顔をした人、しかめっ面をした人、さっさとその場を去る人、冷めた目かつ物見遊山な表情でこちらを見る人…そんな一人ひとりの顔もよく見えたし、声も聞こえた。
頭の中は恐怖でいっぱいだったと言うのに、妙な冷静さでそんなことを見ているもので。きっと僅か何分間の出来事なのに、スローモーションでそれを長く感じたりする、不思議。

その時の細かい描写はさておいて、結局のところ、誰一人、助けてはくれなかったと言う事実。大人も車もたくさんいたけれど。
犬を追い払おうとしてくれた人も無論いなかったし、犬が離れたときに助け起こそうとも、病院に連れて行ってくれる人もいなかった。自力で這いつくばって家に帰るしかなく…いやさ、姉が先に走って行ってしまっていたので、いつまでも来ない私を探しに戻ってきて、親を呼びに行くって、そのまま行ってしまったりなんかして(その前に私を助けろってば、ねぇww)

こうした幼児体験は、大人に対する不信感にそのまま繋がる。そして、人間ってものは、「自分だけが可愛い生き物で、決して他人を助けようとはしない生き物だ」と言う現実もこの日に知った。

人間というのは、そんなものだ… 他人を見捨てる存在であって、決して他人に期待してはいけない。大人なんて、そんなものだ。

あの日、あの瞬間に「自分が噛まれなくて良かった」そういう安堵感を、何人の人の瞳の中に見つけられただろう。

笑えることに犬に噛まれたのはこの時が初めてでは無くて、4回目であった。最初は伯母の家に行く途中に、隣の家の犬に手を噛まれて、その後には足をどこぞの犬に噛まれて…極めつけは野犬の群れに襲われて、全身縫って死に掛けたこともあるから。
それでも犬のことを嫌いにならなかったのは、田舎の祖父母の家にも犬がいたし、私自身も犬を飼っていたからかな。彼らは実に従順だったし。
犬がまあ…悪くなってしまうのは、やはり飼い主のせいなんだと思う。
私を噛んだ犬も、一日中狭い檻に閉じ込められて、自由を奪われて、満足に運動をさせてもらっていなかった犬だったし。

だから、犬よりも人間の方が怖いよ。人間の方が残忍で残酷で、必要のない狩り(殺人)を同胞に対して行ったりする、唯一の存在だ。人間は生きるためでも食べるためでもなく、殺人を犯し、他人の死に様や悲劇を娯楽として楽しむ感覚を持っている。人間ほど、ゾッとさせてくれる存在はない。



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