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玉磨かざれば光なし~和光同塵

単なる占い相談を逃げ腰にダラダラとやっていた時から、霊媒(ミディアム)と言う自分の資質を活かすスタイルでの、この仕事にスライドして、もう15年になるわけですが(たぶん)…未だに新たなことに気づかされることもあるわけです。
もちろん、過去のケースで培った経験値(体験から得た知識や技術)というヤツがありますから、始めた頃に比べると「ああ、これはこう言う事かもな」「過去のあのケースと似ているな」と言うように、これまで経験した成功例や失敗例から様々なことを想定して対処することは可能なんですけれども。

逆らう事を止めて、セッション中に起こることや自分が知りえること(無意識に口にしていることや確信すること)を猜疑心を取り除いて、ありのままに受け止めて…(それでもまあ、精査をすること、クライアントさんからの視点と私の視点とのすり合わせや確認作業は怠らないよう)…なすがまま、起こるがままにその波に乗ると、意外な方向性に導かれたりもするものの、自然とどんな人為的な働き方やエネルギー(氣)を流すよりも、確実に起こるべき解放と言うのは起こるもので… 癒しや解放と言うのは、やはりヒーラーが起こすものではなくて、ヒーリーたるクライアント自身が起こすものなのだと実感させられます。

ヒーラーやセラピストはほんの少しの手助け(客観的な視野、引率的なナビゲート)と、その機会を与えるだけの存在で、その人の人生のその瞬間に起こるべき出来事(癒しと言う名の解放)に立ち会っているだけなんだと。
それは無力感とは別なもので、ただその瞬間に立ち会えていることに対して、純粋に悦びを感じるだけなんですけどね。と言うか、それすらも淡々としたもので、感情が動かないと言うのとも違う、とてもクールダウンされた思考と感情なんです。

やっぱりそれは自分で視ようとか、知ろうとか、問題の根の解決や手放しをこちらが行おうと力んですることでもないし…クライアントさんの切望と決心が招くことだから、ただ起こることを見守るって感覚に近いのかなあ。
そして、原因を探って、一つ一つ紐解いて、様々なことを浮き彫りにしていく、クライアントさんを苦しめ、呪縛しているものを取り除いていく作業は…まるで発掘みたいな作業だなあと改めて。
この作業をしている時は、個人的な好奇心なども一切働かなくなりました。以前はミーハーな歴史ヲタな面があったので、そういう触手が疼き良く伸びてしまっていたものですが、今は努めて冷静に物事を見ていられる自分がいたりしますから、とても面白いものです。

そして、セッションの詳細を書かずにこんなこと書くと、まったく意味解んね~!って人もいると思うんですけど…

一人のクライアントさんの中に閉じ込められたエレメンタルを解放することは、そのクライアントさん一人だけでなくて、その運命(過去生だったり今生だったり)に関わっている人…個人だったり複数人だったり団体様ご一行だったり…も解放することなんですよね。今さらなことですし、最近知ったことでもないのですが、改めてその事実を思い返したりします。

例えば、日本人であるときに幾度か同じ血脈(家系)…つまり今のその人にとって自分の過去生の幾度かは今の自分の先祖であり、自分の子孫に生まれているってクライアントさんがいたりするのですが(ちょっとややこしい)… それは本当に自分のその人生のカルマの負債の返済とやり残したことの後始末でもあり、先祖の立場としては子孫を救済するということをしているわけで…そうすると、こういう場合は他の方の事例よりも、より多くのご先祖様が色々と働きかけやお手伝い(サポート)をして下さったりもする。関わる人が半端ないというのかなあ。全部目には見えない人たちですけども。

私はどちらかと言うと、西洋魔術の方を長く勉強してきたわけなので、仏教にも神道にも詳しくないし、せいぜい触り程度の知識となんちゃって行や座禅をやりましたって程度で、修験道とか密教とかもよく解ってないし、そして霊能者修行なんぞもしたことがないわけです。過去生で道教とか、その他の地域でシャーマンとかやってたって、詳細は覚えてないわけですよ。まぁ、覚えてることもありますけどね。

だからまあ、一族のそうしたカルマ、仏教でいうところの業とか…日本独特の先祖から子孫へと受け継ぐもの、その図式には何とも言えない感慨も覚えたりするわけです。その辺りは私の母方の家系で学ばされてはいたわけですけれども、そう言うところに自分が生れていなければ、体感的に理解出来なかったことかも知れません。その意味で、今の家に生まれたこともこの仕事のために必要な経験をするためだったのだなあと、再三ですが思い知らされたりします。

あとね。以前に施餓鬼のことを書いたと思うのですけど(餓鬼エレメンタル関連の話で)、土地に巣食う飢餓の記憶(餓鬼エレメンタル)はそれなりに供養されているわけですけれど、人の記憶の中(チャクラのデータ)に住まう傷はまだまだ癒されてないわけですよ。

先日もチャクラヒーリングの最中に「これは天明の飢饉かなあ、天保の方かなあ?」と言う飢餓の記憶をクライアントさんの中に見つけました。藁を食べ、終いには藁で作ったもの(草鞋とか茣蓙とか)もクタクタに煮て食べたんだなあ…と。でも、それはまだよかった。問題はそれすらも無くなった後で。それが現在の食生活にとても深く影響を与えているんですね。お肉が嫌いでどうにも…という理由。

みんなお腹いっぱいご飯食べたかったんだなあ…そしてたわわに実る稲穂を見たかったんだなあ…(それらはほとんど年貢として持ってかれてしまうわけだけど) 

さて、それでどうするかって言うと、飢餓によって亡くなった同じ村の人たちとグループエレメンタルとして繋がっているので、施餓鬼法要のようなことをするわけです。こういう場合は(豊作のお祭りとしての形を取りましたが)。で、お百姓さんはね、お米作ってても食べれないんで、お米あげてもダメなんですね。遠慮しちゃって…少しならいいんだけど。けど、粟餅とかきび餅とか、ものすごく喜んでくれましてね。

まあ、そんなんで一人を助けることは、蜘蛛の糸じゃあないけれど、運命を共にした人たちをも救済することなんだよなって、はい。

そして、その方の過去生としてのパーソナリティの方(北欧のバイキングの方でした)から…お礼の言葉を頂いたりして、なんかそれってくすぐったいけれど、本当に嬉しいことです。

今はもう一人ひとりのクライアントさんのケースを物語仕立て?の内容に記述する事を止めちゃったのと、個人の忘備録的に一部分しか書いていないので、「それだけの情報じゃ、 わからんよー」って読む側からは言われちゃいそうっすねww

あと、これは宿業的なカルマの話になりますかね。集団としてのカルマの贖罪方法と言うのかなー あんまし多くは語れないのだけども。そのバンドの複数いるメンバーの一人には縁あって、ほんの少しさわり程度に一部分の情報を戒め的にお伝えはしましたが、それ以上は言う機会が無かったことをここでポツリと。

はい、ちょっと意地悪なボヤキです。

…それが戦争だから仕方が無かったとは言え(でも、敵兵を狩ることに対しては実に楽しそうにされてましたがね)…たくさんの人の命を奪った銃をギターに持ち替えて、今生では心臓を弾で打ち抜くのでは無く、ハートを打つ歌(曲)を作ることで、その罪の贖いをすることになった人もいるのだなあ…と。

そして、かつて弓矢の糸を引くことで人の身体を射抜き、命を奪うことをしていたある人は、今生では人を射抜くためではなく、音を奏でるために琴の糸を弾いている。死刑執行のときに銅鑼を叩きながら朗々と口上を述べ、他人の死をショーのように演出していたある人は、やはり太鼓を叩きながらお囃子の合図を入れている。

それぞれが個々のカルマや罪を背負っているのとは別に…ジプシーの旅芸人をあざけ笑い、馬鹿にして、彼らの楽器を壊して燃やし、集団で嬲り殺しにしていたそんな人たちが、今生でもまた集まってバンドを作り、その楽器を弾くことでお金を稼いでいたりする。娼婦のことを汚らわしいと罵り、さげすんでいたくせに、その娼婦の悲しみをさも知っているかのような歌を作り、歌っていたりする。ようするに自分たちが見下して小馬鹿にしていた人たちと同じ方法で、小馬鹿にしていた人をネタにして、お金を稼いでいるわけだ。まったくもって笑止千万。乾いた笑いを浮かべるしかない。

皮肉なものだなあ…と思う。

※たまに花魁や遊女のコスプレをしている人がいるけれど、過去に囚われてそれをしている人はともかくとして、そのような行為は彼女たちに対する最大の侮辱で、あげつらい揶揄していることだって、どうして気づかないのかなあ。北斉の胡太后みたいに、遊女になりたがり、それを楽しんでいた人なんて一部だと言うのに… 馬鹿にされているって恨みに思っている霊やエレメンタルたち、結構います。遊郭なんて地獄の代名詞なんですよ、彼女たちにとっては。事実(歴史としての実像)を伝えるならともかくとして、お遊びのネタみたいに使われていることに対しての怒り、わからいでか。

ライバルを蹴落とすために策略を巡らせて、裏で手を引き、相手の顔を焼いたり、目をえぐり取るようなことをしていた人が、整形をして「私、きれい?」なんてやっていたりする。美しい人たちの美貌を妬み、やっかみ、その彼女たちから衣服をはぎ取り、辱めを与えることをしておいて、今生では着飾って、ステージの上で神輿担ぎされるがごとく、ちやほやされて悦に浸っている。こういうのは本当に見苦しいが…自分の罪を知らぬが故の事だから、致し方なしと言えばそうなのだろう。さりとて、この人の性根の悪さは昔と何ら変わっていないなあ、とつくづく(溜息)。

何故天罰が落ちぬのか…と人は問うだろう。

このような罪の贖い方もあるのだと言うしかない。自分が傷つけ、殺めた命の重さの分だけ、多くの人に慰めと悦びを与えるのも、また一つの贖罪の道。

彼らの目指した道がこれまで上手く行っていたのは、その犯した罪を贖わねばならぬ為。彼らの道が行き詰まり、上手く行かないのは、その犯した罪の重さが故。いかにも道が開けたことで有頂天になり、大切なものを見失い、疎かにしたことで、失うものがこれからたくさん出てくるだろう。


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