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「コーヒーでも飲む?」が教えてくれたゆたかさ

私と旦那は、2人共カフェラテをよく飲む。
アイスにしてもホットにしても、コーヒーは市販のペットボトル。簡易的なペットボトルのコーヒーと牛乳を混ぜて飲む行為はもはや日常だったけれど、どこかほんのり罪悪感があった。

きっとそれは、実家ではコーヒー豆をミルで挽いてドリップしたものが出てきたからだと思う。
いや、それは「出てきた」のではなく、紛れもなく母が「出してくれていた」ものだ。
「コーヒーでも飲む?」は母の口癖だった。

実家で母が入れてくれたカフェラテの味が恋しくなり、私は意を決してドリッパーとコーヒーポットを買った。豆から挽くところは割愛してしまっているが、毎日ドリップしたコーヒーでカフェラテを入れている。

そうなると、豆にもこだわってみたい。母は昔使っていたコーヒー豆を今でも使っているのだろうか…?ドトールのマイルドブレンド。我が家のコーヒー豆はいつもこれだった。
「コーヒー豆何使ってる?」とLINEすれば済む話だが、私は連絡するのをためらった。

というのも、母はメンタルが弱っているという事情がありここ最近は自分で料理ができなくなってしまったのだ。
料理が億劫ならコーヒーを入れることも億劫になっているかもしれない。変な聞き方をしたら、母のことだから、昔みたいにコーヒーを入れられていない自分を責めてまた落ち込んでしまうかもしれない…

ためらいながらも、同時に母と何か共通の話題を見つけたい!という思いもあり、思いきって聞いてみることにした。

「今でもコーヒーって豆から挽いてる?ドトールで買ってるの?」

「入れてるよ。でも最近は成城石井で買ってる」

…よかった。コーヒー豆を買うお店と種類は変わっていたけど、コーヒーを入れているという事実は変わっていなかった。

「最近ドリッパー買ったから私も入れ始めたんだ。」
「そうなんだ。豆から挽いたほうがおいしいよ」

最近落ち込み気味で自分からアドバイスなんてしてくれなかった母からの久しぶりのアドバイスを聞いて、なんだかとても心があたたかくなった。嬉しかった。

それは自分の新たな挑戦と、母親の変わらない習慣が重なった瞬間だった。

ああ、これだ。
このあたたかさこそ、ゆたかさだ。

恥ずかしげもなくそんなことを思ってしまった。

自分と、離れて暮らす親が一緒に日々を過ごしてゆたかになっていくのは難しい。
起きる時間も、日中の過ごし方も、関心がある出来事も、心配なことも、夜眠る時間も、何もかも違う。
でもその中で、小さな共通点を1つでも見つけられたら。

「そういえばママが入れてくれてたカフェラテはおいしかったよ」

「ありがとう」

そんなささいなやりとりも嬉しかったし、これからコーヒー豆の情報交換をしよう。たまにはおいしいコーヒー豆を送ろう。そんな未来の想像をしただけでもっと嬉しくなる。心がゆたかになる。

「コーヒーでも飲む?」

母が父と私にいつも口癖のようにかけてくれた言葉を、私はまるで昔から自分自身の言葉であるかのような顔をして、今日も旦那にかけている。

#ゆたかさって何だろう #日常 #エッセイ

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