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【英語本】『英語と日本人』江利川春雄【ブックレビュー】

フェートン号事件から最新のAI活用に至るまで、約200年に渡る「英語と日本人」の挫折と希望の歴史について概観できる内容。読む前は学術書のような硬い本かなとやや身構えていたけれど、読みはじめると随所に著者の江利川春雄先生の軽快な寸評も入りつつ進行する作りとなっていて、そのおかげもあり楽しく、しかし多くの学びをもって、読み通すことが出来た。

片田舎の塾講師という立場ではあるけども、日々英語教育に現場で関わる身として、自分が大きな歴史の流れの中のどのような立ち位置にいるのか、また私が曲がりなりに学び教えてきた英語が単なるコミュニケーションの道具であるに留まらない深みのある存在として、立体的に捉えられる一助となる読書体験となった。日本の近代史は英語との腐れ縁なしでは語れないものなのだとつくづく思った。

それにしても今なされているようなコミュニケーション重視vs読解重視とか早期教育vs母語教育かとか文法は要るのか要らないのかアクティブ・ラーニングはどうだとか、もう明治の昔からさんざんなされてきた議論の焼き直しなんだなと思い知らされる。本書でも『日本の思想』の丸山眞男を援用して、日本における議論の蓄積しなさ加減を嘆く箇所があるけれど、昨今の英語教育の喧騒・迷走ぶりもため息まじりで納得がいく。

全体には、如上面白く読んだのだが、ただ、これは斎藤兆史先生の『英語達人列伝』のときにも感じたことで、なんというか、出てくる固有名が男、男、男、また男、本書でも、大きく取り上げられている女性は鳥飼玖美子先生くらいのものかというほどの男祭り。

現在英語教育に関わっていて、これを言い過ぎるとまた逆にバイアスになってしまうから良くないかもしれないけれども、女性の方が外国語学習適性が高いのではと感じる瞬間は実際のところ少なくない。現在ではYouTubeやPodcastなど見ると自信を持って堂々と英語を発信している日本人女性話者がたくさんいる。

にも関わらず「歴史」を語るとなると、かくも勇壮な男祭りになってしまうとしたら、そこに働いている力はいったいなんなのか?

加えて、日本における英語の立ち位置が、フェートン号事件以来、良くも悪くも国際関係におけるパワーゲームの中心であり、また個人レベルでも、立身出世のための強力な拠り所だったからか、「英語修行」だとか「必勝の意気と気合いと頑張り」だとか、英文解釈に「一種のエクスタシーを感じ」たりだとか、なにかと胸焼けするマッチョな言葉使いが多い。中でも内村鑑三の『外国語之研究』を引いたところには、

規則動詞の変活に熟誦せよ。動詞は言語の中心であり、「まず規則動詞の首をはねよ。不規則動詞は攻めずして降らん」。

とかいった具合の暴力沙汰である。もちろんこれらの内容については引用している著者の責任というわけではないのだけれども。。

ただ、本来はもっと健やかであるべき「学び」を、こういった「戦争」や「闘い」といった物騒なメタファーでとらえる傾向は現在でも根深く続いていて、「受験戦争」だとか「世界一◯◯」だとか「無敵の◯◯」だとか「最強の◯◯」だとかいった、事実を客観的に認識し伝える気のない中ニ男子的な気合いの言辞が飛び交っている。おっと「中ニ男子」もジェンダー・バイアスにひっかかる物言いなので良くないか。。まさに世はMetaphors we live by!( by Lakoff)

いまでも英語教育に関する過度に攻撃的だったり、また時に自己防御的な応酬は、「英語と日本人」を巡る近代以来のマチスモに満ちたナラティヴに依るところも大きいのかもしれない。これは概ね無意識レベルのものなのだろうから、そこからの解放は容易なことではないだろう。

それでも、これからの健やかで伸びやかな学びのためには、きっと最強の戦争やら世界一で無敵のメタファーとは別の、もっとたおやかな語りが必要になるんじゃないかなあなどと思ったりもした。まあ将棋の「無敵囲い」みたいな感じにまでなれば笑えるんだけど。。


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