苦しむこと、傷を持ってること、歪みを持ってること、過去の経験を盾にして、結局そういう自分と本気で向き合っては来なかった

破滅てきな思考も刹那的な考え方も自分をないがしろにすることも、結局自分に責任を持たないことだった。
自分のさみしさや感情を他者で埋めようとしないこと。
わたしの行動理由が全部みとめられたいほめられたいに収束しているようなきがする。



人とかかわる時間も一人の時間もしぬほど必要なんだけど、

この年になってようやく他人とのコミュニケーションで自分のいたらなさを自覚するようになってきた。というか自覚はしてたけど、ふにおちてなかったものに気付けるようになってきた。

認めたら本当に恥ずかしいことばかりで、今もなお恥ずかしいこと更新してるけど、切実に変わりたいと思ってるから、ちょっとずつでも前進してると思いたい。

普通なら10代で気付けたり、まわりの大人から学んだりするものなのかもしれない。

「苦しんでたいんでしょ」と言われたことがあって、そんなわけないじゃん、と思ったけど、そんなわけないじゃんを言葉にして相手につたえることすらわたしはできなかった。それ以上傷つけられるのが嫌で、誰にもわからない、って孤独に閉じこもっていた。

苦しむこと、傷を持ってること、歪みを持ってること、過去の経験を盾にして、結局そういう自分と本気で向き合っては来なかった。だからそういう意味では「苦しんでいること」にメリットがあったのかもしれない。

それをするだけのエネルギーがなかったし、正直もう傷つきたくなかったし、これ以上傷ついたら死ぬしかないくらいになってたから、当時の自分は仕方なかったけど、今は少なくとも弱さや傷を持ってはいても、渦中にはいない。

わたしを脅かす人はいない。怖いことはない。

同じことを繰り返す必要はない。

それだけのことが、ずっと頭ではわかっていたのにふにおちてなくて、自分がおかしいのはわかりながら、変われなくて、さらに苦しくなってを繰り返してきたけど、まわりとのかかわりやすきなことをやることでやっと自分の心にちょっと余裕や安心が得られたのか、最近ようやくわかってきた。亀の歩み。

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