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「今日一日を生きたことに感謝して、毎日お祝いしよう!」対話その⑨Moさん(前半)|当事者ではない立場から



 柿をつまみながら収録をした初回の放送から半年以上がたち、季節は真夏。月に1回ほどのゆったりペースで続けていた「wish you were hereの対話」の配信回数も二桁に差し掛かろうとしていた頃、はじめて自死遺族ではない方にゲストに来ていただきました。

2022年8月。リモート収録で3人目のゲストに来てくださったのは、シンガポール在住のMoさんでした。Moさんとは、最初にもりもとがpodcast配信者向けの「樋口塾」というオンラインコミュニティを通して出会いました。(Moさんとつながるまでに数々のありがたいご縁があったのですが、ここでは省略させていただきます。)

それまでゲスト回では、自死遺族の方としか収録をしてこなかったのですが、wish you were hereの対話は、自死で大切な存在を亡くした方の周りにいる人たちにも聞いてもらいたかったですし、この配信を、遺族でない方が聞いたらどんな風に感じるのかということも、気になっていました。なので、よだかさんも僕も、Moさんがこの番組を応援してくださって、ゲストに出てくださると聞いたときはとても喜びました。

この回では、Moさんがそれまでの「wish you were hereの対話」の配信のなかで興味を持ってくださったところや、さらに質問したいところを事前に教えていただき、それについて3人で話しました。


収録の冒頭では、Moさんに自己紹介をしてもらったあと、この番組に出ようと思った理由を聞かせていただきました。


配信を聞かせていただいて、この配信がこれからたくさんの人に聞かれて、届くべき人のところに届いたらいいな、応援したいなって思ったんです。あとは、私は当事者ではないけれど、周りに自死遺族の方や精神疾患に悩まれている方のご家族の方がいて、「辛い思いをされているときに、どうやってお声がけしたらいいのかな」って悩むことが本当にたくさんあるんですよね。何が起きるかわからない世の中だから、自分も当事者にならないとも限らないし、お二人の乗り越えてきたことを聞かせていただいて、私もこれからできることがあるか一緒に考えたいと思ったんです。


ご自身は自死遺族ではないMoさんですが、20代前半で教師をしていた頃、自殺願望を抱く生徒と向き合う経験があったそうです。話は30年ほど前にさかのぼります。


”死ぬことについて自分は何もわかってないのに、この子を救えるんだろうか”


まだ日本にいたときに、大学を卒業したあとで高校の教師をしていたんですけど、生徒のなかに「自殺をしたい」って言った子がいたんです。私もまだ若くて22歳くらいのときだったのもあって、そういうことにすごく真剣に向き合ったんですよね。

死んじゃうっていうことがどんなに大変なことなのかを、何時間も一緒に話しながら考えて、そのなかで私は、「死ぬなんて、そんな簡単に言うことじゃないよ」ってその子に言ったりするんですよね。そう言ったものの、「自分だって死ぬことがどんなことかちゃんとわかってないのに、上辺で話をしてしまっているな」という感じがすごくあって、嫌だったんです。その子が本当に死にたいと思っているんだったら、自分はそのことについて何も知らないのに、この子を救えるんだろうかって。

でも、そのときは、大丈夫だったんですよ。毎日のようにその子とお話していたら、本気で死にたいわけじゃないなっていうのがわかってきて。それで、その子がバファリンみたいな薬をいっぱい飲むっていうから、「じゃあ先生の前で飲んで。先生が見届けてあげるから」って言ったら、「やっぱりやめる」って言ったんですよね。だから、やっぱりとことん話したりすることで、「生きることよりも死んだ方が楽なんじゃないか」って思う気持ちを変えられるんじゃないかって、そのとき思ったりはしました。


4年ほど勤めた高校教師の仕事を辞めたあと、Moさんは、自分のやりたいことや生き方を見つめて、さらに数年後、シンガポールへ移住しました。慣れない国での生活や子育てなど、自分や家族の生活にエネルギーや時間を全部使っていて、他の人の生きづらさなどはなるべく見ないようにして、目をそらして生きてきたとおっしゃっていました。


僕は子どもの頃、苦しみの最中さなかにいるときに、「なんで周りの大人は自分のことをわかろうとしてくれないんだろう」と思うことがよくありました。だけど、自分が大人になって働いて暮らすようになると、誰かの、特に自分と属性が違う人たちの苦しみに寄り添う余裕を持つのは、なかなか難しいことなんだと気づきました。


だからこそMoさんのように、子育てが落ち着いてきて余裕ができたタイミングで、こうしてまた関わろうとしてくださることを、とてもありがたく感じます。Moさんが生きづらさを抱える人に関わりたいと思うようになったのは、東南アジアでの生活を続けていくうちに、「自分が生きやすい立場にいる」と感じるようになったことが影響しているそうです。


東南アジアには、特にシンガポール以外の国の人たちのなかで、とても生きにくそうな人がたくさんいるんですよね。国がきちんとしていないから外を普通に歩けないとか、他の国から出稼ぎにシンガポールにいらっしゃる方のなかには、トラックの荷台に乗って荷物のように運ばれてくるワーカー(労働者)さんもいるんです。そういうのを目にして、私たちはなんて生きやすいんだろうかと思っていて、そのうちに、人種とか出身国とかに関係なく、生きづらい方がいるっていうことにも目が行くようになりました。


 子育てが落ち着いてきて、podcastなどを通じて日本や他の国々にいる多くの人たちとつながり、それに伴って、周りの人たちの生きづらさがさらに気になるようになったMoさん。社会の一員として役に立ちたいという思いから、日々プライベートで、様々なバックグラウンドの人たちと対話をすることを自主的にしておられます。そんなMoさんとの収録の前半では、これまでの「wish you were hereの対話」のなかでMoさんの印象に残った箇所について話しました。


”みっともないところも含めて、自分は自分のことを見捨てずに走って来た”


ひとつめは「wish you were hereの対話その2|自死を受け入れてきた過程について」の終盤のよだかさんの、「自分が自分の伴走者」という言葉でした。よだかさんと僕が、母親の自死を少しずつ受け入れられるようになってきたプロセスについて話していたときに、よだかさんがこんなことを言っていたのでした。

周りからの愛を感じられるようになったというのもあるけど、ずっと自分が自分の伴走者でいられたっていう感じも強いかな。「過去の自分はずっと耐えてきてくれたから、これからも大丈夫」っていうのを信じるようにして、いつも過ごしていたね。

「wish you were hereの対話その2|自死を受け入れてきた過程について」より。
終盤の24分ごろに話しています。



Moさん
自分の場合は、「誰かに頼ればいいじゃん!」と思ってしまっていたのがあるんだけど、結局やっぱり大人になってから、自分のことを自分が一番よく知っているから、本当は自分で考えられるはずだって思うこともあって。自分が自分の伴走者になっていれば、自分が自分の味方なんだもんね。

よだかさん
私も歳を経るごとにそう思えるようになったと思いますけど、やっぱり人を頼りたい気持ちもあって。特に子どもの頃は、助けてくれる人がいつか来ると思って信じていたときもあるんですけど、その方がしんどくて。その期待が裏切られるたびに「自分をわかってくれないんだ」と思って、失望したり傷ついたりして、孤独感がより一層強まっていくことを繰り返していたんです。だけどそういうみっともないところも含めて、自分が一番自分のことをわかっているし、みっともなくても見捨てずに走ってきたなっていう感覚をだんだん持てるようになったんです。


 身近な大人であったり、友人やパートナーなど、信頼していたり、その人に愛されたいと思う関係性ほど、わかってもらえないと感じたときの傷つきは大きいものです。

だけど、そうやって傷ついてきた自分や、辛い思いをした自分のことも、ずっと見捨てずに、これまで生きることを選んできた自分がいることに気づけたら、これからまた辛い出来事に直面しても、生き続けていく勇気を持てるかもしれません。




 Moさんが注目してくださった話の2つめは、もりもとが「対話その3|精神疾患を持つ家族との関わりについて①」で話した、家族の病気の症状を見て、自分の気持ちが浄化されていくような感覚を持った、という話でした。


子どもがあまり自由に過ごせない、少し抑圧的な家庭環境で育った僕は、小学生の頃、精神病になって家で暴れたりしている家族を見て、怖れを抱いていた一方で、「自分が本当はしたいけれどできないことをやってくれている」と、カタルシスのようにも感じていたのでした。

これについては、note的にグレーかもしれない表現が出ているので詳しくは書きません。笑 
もし興味を持たれた方は音声を聞いてみてください。

(聴覚障害等の理由で対話の文字起こしを必要とされる方がおられましたら、話者と相談のうえで個別でお送りすることを検討しますので、コメントかstand.fmのレターなどで教えてください。)



”生きているだけで良い”


 最後は、逆によだかさんからのリクエストで、Moさんがご自身のpodcastのなかで話されていた、ご実家で、毎日一日が終わったらご両親がお祝いの乾杯をしておられたことについて聞かせていただきました。Moさんのpodcastはタイトルが「毎日お祝いしよう!」で、その49話でタイトルの由来を語っておられます。

実家にいたときにお父様が、毎日一日が終わったらビールで乾杯をして「おめでとう!」と言っていたのだそうです。とても素敵な話なのでぜひこちらも聞いてみてください。



生きているだけで良いって、うちの親はたぶんそういう風に思ってたんですよね。子どもたちが元気でいてくれるだけでいい、みたいな。

子どもの頃は、「うちの親は何を能天気に毎日、お祝いしようって言って乾杯してるんだよ」って思っていたんです。経済的に裕福なわけでもなければ、子どもたちができがいいわけでもないのに(笑) 本当に能天気な人たちだと思っていました。

でも、大人になってやっと、それが本当に幸せなことだったんだって分かってきたんです。COTEN RADIOの深井さんたちが、「存在しているだけでいい」っていうことをよくおっしゃるでしょ。でも、自分の存在を自分で肯定することって難しいよね。だけどやっぱり、大人になって本当に思うのは、みんながそこにいてくれているだけでいいよってことなんです。

本当に今回も、このstand.fmを聞かせていただいているよだかさんともりもくんが、いてくれることがありがたいなと思っています。

「wish you were hereの対話その9|ゲストMoさん①」より


収録中、Moさんが心からそんな風に思ってくださっているのが伝わってきて、じーんと胸が温かくなっていくのを感じていました。




「生きているだけでいい」

これを読んでくれているあなたは、たとえ誰かにそんな風に言われたとしても、自分の頭のなかですぐにその言葉を打ち消してしまうくらい、何かの成果を日々求められるような強いプレッシャーや、人間関係、忙しさなど、いろいろなストレスの中で生きているかもしれません。

「自分はMoさんの育った家とは真逆で、そこにいるだけで肯定されるなんてありえないような環境で育ったから、どうがんばってもそんな風には思えない。」そう思う人もきっといると思います。

だけど、それでも僕は、亡くなってしまった人たちのことを思い出すたびに、生きていてほしかったなと思うんです。生きているだけでよかったのにって思ってしまいます。なまぬるいかもしれないし、こっちの気持ちを何もわからないくせにって思われるかもしれないけれど。

誰かが「死にたい」と思ってしまうよりもずっと前から、何度も何度も、このメッセージを多くの人に伝えられたらいいなと思っています。


生きているだけでいい。

一日が終わる時に、今日も一日生きられたことに感謝して、毎日お祝いしましょう!



Moさんとの対話は後半へ続きます。


対話その⑨の実際の音声はこちら。

podcastでもお聞きいただけます。




こんな本もあります

「『死にたい』と言われたら」(ちくまプリマ―新書、末木新さん(2023)) 
 
 ご家族を自死で亡くされたのをきっかけに自殺というテーマに関心を持つようになった研究者であり、臨床心理士でもある末木新さんの本。とても読みやすい文体で、「『死にたい』って言われたらどうする?」、「自殺って他の死に方より悪いことなの?」、「どうして死にたいときに助けを求めづらい?」などの疑問に答えてくださっています。かつてのMoさんのように、周りの人に「死にたい」と言われて悩んでいるという人のヒントになるかもしれません。



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