傍観者の私は内申が良かった

エクセルに入力されただけの数字に人生を左右されるなんて馬鹿げてると思っている。だから、頑張っているのをちゃんと見てくれる人が好き。
“頑張れば成績なんて取れるじゃん”ってよく言われて、その度にしんどくなるけれどそれもまた的を得ている。

中学の時、私は体育が大の苦手だった。
でも第一志望の高校を目指す時に内申で44は取りなさいと担任に言われ、苦手でどうしてもできない数学が4だとしたら他は5なのか!と思ってすごく焦った。
大嫌いな体育委員になって、先生に授業中に行った競技のコツを質問しに行って、それでも走るのは学年で二番目に遅かった。結果、内申は5だった。筆記試験で98点を叩き出していたとはいえ、実技だけで見たら3の私になんで5をくれたのか、卒業直前に聴きに行ったことがある。先生は「できないことを頑張り続けて、筆記でも頑張っていたからね」とやんわり言ってくださった。でも、それって贔屓じゃない?って言われたら返す言葉はない。

私はそういうふうによく言えば取り入るのが、悪くいうならごまをするのが昔から上手だった。その理不尽さに私は救われてここまで来たって思ってる。
実力ではない、ずる。ただ、その恩恵を授かっているから大きな声で否定はできない。

3年生の時同じ中学で同じように筆記試験で90点を取り、しかも運動神経抜群の男の子がいた。その子はとても正義感の強い子で、人望も熱く後輩からも慕われていた。
しかし球技大会でとある先生の判定のミスを指摘したら彼は内申で2をつけられた。その先生が自分の担当クラスを有利にしてたのは誰の目からも明らかで、私がそれを指摘しなかったのはその先生がかなり露骨に自分の意見を聞く”素直”な生徒を贔屓をする先生と知っていたからだった。その男の子は狙っていた推薦が取れなくなった。何人かの先生が男の子を連れて、泣いてるその子の肩をだきながらその体育教師に対して怒っていたのも見かけた。

数字だけに追われた結果、見えなくなるものがある。模試の判定に振り回されて、わからなくなることがある。中学生って、高校生って、こんなにも勉強しかしないものなのかって、ちょっぴり絶望したりもする。中学では「いい高校にいけ」高校でも「いい大学に行け」きっと大学に入ったら「いい会社に入れ」って言われる。教育って、本当に数字で測れるの?偏差値でどれだけその人のことがわかるの?私と10歳も差のある子供と話して、ハッとさせられた時にこれが私は欲しいのにって強く思う。刺激、思考、広がる感覚。1600年に関ヶ原って覚えている人よりも日本文化(茶道とか?)を極めて海外に広めようとして活動している子の方が私にはずっと眩しくて素敵に見える。

義務ではないはずの世界でまだ“半強制の義務”になってまとわりつくこれをどうすればいいんだろう。
中学の唯一大好きだった先生が「やりたい教育ができない」って言って大学の先生になったのを見て、どう思えばいいんだろう。
いつ、誰が数字なんてない私を見てくれるんだろう。
正義感をとって2になった彼と、黙って傍観者になっていた私の5は、多分比較できない。
数字にしないで。
数字をつける人になりたくない。
常に、その人の心と本質と、寄り添っていたい。


ねえ先生、


知ってた?私の名前




覚えてくれたらいいのにね。

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