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「出来ない理由」を見つけるのが支援じゃない「出来る手段」までたどり着くのが支援

徒然に自分自身の「対人援助」や支援についての方法論をアーカイブしています。
概念を言語化・可視化しておくことで、これがいつか誰かに伝えるための資料になったり、今リアルタイムで誰かの参考になるのであれば、書き残しておくことがムダではないと思って書いています。

もしお役になるものであればお読み下さい。

前回の記事はコチラ↓

今僕は主に障害福祉の現場にいます。僕が支援をさせてもらっている対象者としては、今は「障がいをお持ちの方」です。
今まで、「子ども」の居場所を創るボランティアもしてきましたし、介護保険領域でのお仕事もさせてもらってきました。

支援や援助、というのはそもそも「生きづらさ」や「困難さ」といったものがあるから存在します。
例えば、

「最近は子どもが外で思いっきり遊ぶ経験がなかなかできない。犯罪のリスクが高まったことや、ゲームばかりで屋内での遊びしかしないこと、そもそも子どもがワクワクして遊べる遊びってちょっと”危ない”ものだけど、そういうリスクから遠ざける親御さんも増えた。だから子どもは遊びを通じて得られる様々な経験を奪われているんじゃないか」
みたいなところから生まれたもの、

「脳卒中から半身が麻痺してしまって自力で生活を送れなくなったことで、生きる意欲を失い、寝たきりになったりする方がいる。まだ人生は続いているのに、まるで死んだかのように諦めて生きていかないといけない人がいる」
というところから生まれたもの、

「平均寿命は伸びたけれど、足が痛い、腰が痛い、家族には何をやっても危ないと言われて何もさせてもらえない、そもそも高齢者世帯で生活している、認知症になって生活が送れない。高齢者になることで、自分で生活を送ることができにくくなった。」
というところから生まれたもの。

角度は違えど、どれもある種の「生きづらさ」「困難」な課題があるところから支援や援助の必要性が生まれています。

そうなると、詰まるところ支援や援助の最終目的は、「生きづらさや困難の解決、解消」です。

・・・のはずなんですが、生きづらさも困難も、解消されることなくいろんなところをタライ回しになりながら生きている方が山程おられます。

福祉制度の狭間でどこにも引っかからないケース
地域に社会資源がない、もしくは不足しているケース
支援者自体が足りていない
課題自体が複雑化している

いろんな事情が考えられますが、何にせよ解決も解消もしていないという結果です。

支援や援助という役割、仕事は、必ずしも生きづらさや困難さがすぐに解決・解消する類のものではありません。
いろんな知識やスキルが必要な場合もあります。
いろんな社会資源を活用する、つまりソーシャルワークというやつですね。そういった動きをする必要がある場合もあります。
福祉制度を使う場合が一番多いかも知れませんね。

それでもなお課題が解決・解消しない、ということがあるわけです。

それは本当にベストを尽くした上で解決しなかった、解消しなかったんでしょうか?

「できない理由」って山程聞きます。
制度にないから、そこまで手が回らないから、本人の問題だから、そこは介入できるところじゃないから、プライバシーが、権利が義務が・・・。みたいな。

僕はそこにいつも違和感を感じてしまいます。

「出来ない」のベースから話をしてしまうと、どこまでいっても「出来ない」まま?
でも、そこには生きづらさや困難を抱えている対象者がいるわけで、その当人からしたら「出来ない」理由なんていくら聞いても「じゃ、しょうがないよね♪」にはならないですよね。

ましてや出来ないまんまにしておくこと、つまり当人が希望も持てない状態のまんまにしておくことを「仕方ない」とは、僕は思えません。

これは支援や援助だけではないのかも知れませんが、できない理由を100個挙げるのは簡単です。でも理由が100個あろうが1000個あろうが、「できない」で終わらせるなら、僕らは何を以ってプロなんでしょう。

どうやったら出来るのか、から発想していくこと。その上で方法論まで辿って行って初めて専門職の「支援」や「援助」じゃないでしょうか。


どうやったら出来るか、あらゆる方法を以て辿っていきながら試したり、検証しながらやった「結論」としてできなかったのであれば、それは「出来ない理由」じゃなくて「できなかった理由」です。

屁理屈みたいですが、要は行動を起こさないのに「できない」というのは「やらない」と同じです。
そこに違和感を感じてしまうわけです。

これは自分が感じることなので、自分はそれはしたくないな、と思うわけです。
だったらきちんと具体的に「出来る手段を考える」ということをしようと思いました。

支援を達成した状態ってどういう状況?

とは言え、いろんな「生きづらさ」や困難に対して、僕ら支援者・援助者が支援をした、という状況と、客観的に見た支援をした、という状況は認識が違うこともありますよね。

なので、定義づけをきちんと共有しておかないといけないと思うんです。

多分、支援というのは全てのお膳立てをして、全ての面倒を見ることではないと考えられるので、僕の中ではこういう定義のもと、支援を行っていきます。

①本人、もしくは家族など「自助」の中で不安感なくまかなえる状態
②一時的に担保される状態じゃなくて、常態的に担保されている状態
③固定化しているのではなく応用性や流動性にもある程度対応できる状態

おおよそこういう状態になっていると、その後は支援というよりもアフターフォローという形で見守れるんじゃないかと思うんです。

こうして言語化してみると、そういえば支援をする側も、そもそも支援が完了した状態ってどういう状態なのか、すっきりしますね。

どれもこれも課題をすべて完璧に解決するまで支援が完結しない、というのはあまりに現実性がないです。公助で全て賄うのも、自助に全てを委ねるのも無理があります。

だったらこの3つのポイントに支援の達成基準を絞って、この状態になるにはどうしたらいいのか、という土俵で考えていく必要があるんじゃないかと思います。

あくまで「状態」の定義なので、これが方法論でも方程式でもないので、ここから具体的な方法論を考えていくわけです。

制約の枠を一切外して考えてみる

僕は長い間「福祉制度」に則った事業に参加してきました。
国が定める福祉制度は、国の法律に基づいているので、その解釈に沿った運営をしている限りは国から報酬が給付されます。
ただし、運営のデメリットとしては、やたら書類量が多く、制約もそれなりにあります。

でも、先に「制約」ばかり考えていたら、どんどん「出来ない理由」ばかりが生まれ、本来の支援や援助、という目的から離れてしまわないでしょうか?

制度をディスるわけではなく、ルール無用でやれ、ということでも制度無視してやれ、ということじゃないですよ。

ただ、「誰のため」の支援なのか、「何のため」に支援しているのか、という本質を忘れちゃいけない、という事が言いたいんです。
支援者や援助者側の都合を持ち出してしまったら、当事者にとっては支援者や援助者が人生のボトルネックになってしまう。つまり、「やってくれる支援者と出会えたら人生が前に進む。出会えなかったら諦めるしかない。」ということにしかならないじゃないですか。

どうやっても課題が解決できない事があるとしたら、その理由に客観的な根拠を示せないとそれは誰も納得しません。
「制度上はここまでしかできない」⇒ じゃあその後どうしたらいいの?
「コストがかかるからできない」 ⇒ そのコストをどうにかする術は探して
                  くれないの?
「◯◯というルールだから」   ⇒ それ誰にとってのルール!?
「そこまでやる時間がない」   
「忙しくて手が回らない」    ⇒ それ誰の都合?

とりあえず、制約を理由において考えることを停止するんじゃなくて、考えるのはタダなんだから、なんとかなる方法を考えてみることから始めてみるわけです。制度に乗せるありきじゃなくて、今ある社会資源ありきじゃなくて、妄想でもなんでもいいから実現するにはどうしたらいいか、という方法を「考える」んです。

今はない資源でも、考えていく中で派生的にやれそうなことや、もしかしたら新しいサービスを開発することだってあったっていい。
それくらい発想を柔軟にして考えてみるほうが結果的に実現可能性は上がります。

最初から思考停止してしまうのは、もちろん理由は立つのかも知れませんが、それを「仕方ない」としてしまうことの支援者としての信用の低下のほうがよほどか僕は怖いですし恥ずかしいです。

いや、一回動こうよ 突っぱねるのはいつだってできるんだから

ということで、まとめにもなんにもならず、これはあくまで個人の価値観の問題だとは思いますが、僕は僕の仕事は、生きづらさや困難を抱えている人を現実的に「支援する」、ということだと思っています。
福祉制度を遵守することが仕事なわけじゃないし、福祉制度に乗らない人を右から左へ物のように移動させることでもないと思っています。

何かしら相談があればまず一回受け止めたり、ベストな方法を一緒に考えたりしたいです。
そのまま頼ってもらうのであれば動きたいと思っています。既存の資源で方法がないのであれば、新たな方法を探ります。
曲がりなりにも制度に乗っていない事業も手掛けているので、一応口だけではないつもりです。

既存の方法、様々な交渉、方法がないなら新しい手法を生み出す、など、自分が持つあらゆる引き出しを開けまくって試してみてそれでもどうにもならなければ、「これだけの方法を試しましたが継続的現実的に難しかったです、ごめんなさい」と謝ろうと思います。

でも、これからの世の中、既存の方法が通用する、と思うほうが非現実的だという感触を持っているので、「出来ない理由」を並べるよりも「出来る手段」を考えていくスタンスを伸ばしていくことが重要だと考えます。

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