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どんな人にも「伸びシロ」がある

身体障がい・知的障がい・発達障がい・精神障がい。
障がいと呼ばれているものはそれぞれの特性(症状)があります。


医学的根拠に立って示されているもの、数値化して表されるものなど様々です。
身体に症状が現れる疾患、脳の発達の遅れや発達バランスの乱れ、ホルモンや伝達物質の分泌異常などなど、もしかしたらそれ自体は確かになかなかコントロールできるものではないかも知れません。


僕ら障がい福祉の世界でも、身体障がいがあればどこに介助が必要だろうかという議論はしますし、知的障がいであればIQはどれくらいなのかは把握しますし、発達の偏りがあればどういう部分の機能に偏りがあるのか、それによって出てくるこだわりや欠落にも目は向けます。精神面についてはもちろん医療・服薬に頼りますし、現在どのような服薬をしているかというところから本人の精神面の状況を推察はします。


疾患によって起きた機能不全という意味では完治や治療には限界があるかも知れません。
知的能力の発達の遅れが常につきまとってくる事自体も器質的なものなので変えようはないかも知れません。
発達バランスも定型発達に整うことは難しいのかも知れません。
情緒の変動が起こりやすいことについては一生付き合わないといけないかも知れません。


ただ果たしてそれって、一生「今のまんま」なのでしょうか?
ビタ一文変わることなくずーっと現状の特性は変わらないままなんでしょうか?
そしてその場合、僕ら障がい福祉の支援者のすることって、「一生変わることのない障がい」と烙印を押して、障がい者なりに生きていくように仕向けていくことなんでしょうか?


精神論と言われればそれまでかも知れませんが、僕はどんな人であっても「伸びシロ」があり、成長の余地がいつだってあると考えています。
診断としての障がいというのはあくまで疾患や現状と予後予測の範囲で判断されるただのファクターでしかないという見方です。


例えば「脳性マヒ」によって起きる機能不全自体は完治するものではないにしても、筋力をつけ自助具を用いながら反復的に訓練することで「出来ることが増える」ことは可能です。
知的能力に遅れがあるといっても、反復したり経験を増やすことで相対的には理解できる能力自体は向上します。
発達のアンバランスがあっても、新しい思考のパターンやルーティンを増やすことで結果バランス的には整っていくケースもあります。
情緒の乱れや現状幻覚があっても、そういう状態の自分の自己認識を高めるだけで安定したりすることはあります。


何も成長もしなければ変化もしない、なんて断定は僕らは絶対にしちゃいけません。
むしろ、医療的な診断として下された「障がい」を不変のものとして捉え、その障がい特性にあらゆる生活をアジャストさせていくのが支援なのであれば、僕は支援者ではないのかも知れません。


うちの事業所で支援をしてきた利用者には、利用開始時にIQが60程度だったのに、就労する頃には80を越えた方がいます。
昼食が5分過ぎただけでパニックを起こしていたのに、10分以上時間が過ぎても「お昼遅れてますか?」と質問してきて受け入れられるようになった方もいます。
学生時代屋外移動は車椅子以外使ったことなかったのに、今では200mくらいなら独歩で歩けるようになった方もいます。
混乱したら大声出して暴れていたけれど、今では「自分は◯◯のときに調子を崩しがちだから、そうなったらすぐ相談します」って言ってほとんど荒れなくなった方もいます。


「そりゃ就労移行のレベルだからだろ」と言われるかも知れませんが、そういう話ではありません。


人間はゆっくりでも小さな歩幅でも「成長」するし、環境や状況に「適応」する力や方法が皆無なわけでもありませんし、「自己調整力」だってあります。
障がい特性にばかり注目して、障がい特性による生きにくさや困難さばかりアセスメントして、障がい特性に合わせた生活や人生ばかり組み立てようとすることは、僕にとっては支援ではありません。


僕、そしてうちの事業所における「支援」は、伸びシロがどこにあるのかを探り、それが見つかればそこをどうやって伸ばせるかを考えたり、適応力がどれくらいありそうかを探り、少しずつ本人がいろんな状況に適応できるような機会、方法、考え方などを根気強く設定したり伝えたり、自分なりに自分の動きや情緒や思考を周りを見ながら調整するコツやタイミングや視点を伝えたり反復的な練習に落とし込んで、自己調整力を高めるようにアプローチしていくことです。


つまり、彼らなりにいろんな経験を積みながらその中から「自分なりの生きる手段」を獲得して、自分なりに社会の中で生きていける可能性をどんどん高めていくことが支援じゃないか、と思うんです。


知識として障がい特性について知ることはとても大事だと思います。
でも、その支援について「伸びシロ」や「適応力」「自己調整力」に触れずに、対症療法的な対応を「これが支援の仕方だ!」みたいに支援者のスタンダードに落とし込んでいくことには僕はあまり近寄れません。


人は必ず社会の中で生きているし、生きていくものだと思います。

そこで本人の努力や工夫の余白や、可能性をまるっと潰してしまうような認識を持ちたくはないなぁというのは、青臭いかも知れないけれど、僕なりの支援観です。







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