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嫌なことがあったときこそ、日記を書けばいいのかも。

 今日も幡野広志さん著『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』を読んで思ったことを。

 この本の中では、以下のことが書かれている。

 当たり前だけど自分がされて嫌なことはやめましょう。自分だったら顔のドアップを撮られたいですか? 恥ずかしい写真を撮られたいですか? 嫌でしょう? だったら相手にもしない。相手の表情や感情を読み取りましょう。

p.118

 「自分がされて嫌なことはやめましょう」って言葉、そりゃもう子供の頃からさんざん聞かされている。
 そして当然、その通りだとも思う。

 でも、私は「自分がされて嫌なこと」が分からない。
 もっと的確に言えば、「嫌だな」と思うことをされても、即時にその気持ちを自覚できない。

 頭の中でいろいろと「でもこの人には悪気がないのかもしれない」とか、「この人に嫌われてしまったら、今いる人間関係の中に居づらくなる」とか、いろんな要素を考えてしまう。
 それで、言語化できなかったモヤっとした気持ちだけが、その場に残ってしまう。

 しかしそれは、翻って考えてみたら、誰も幸せにならない行為だ。
 相手は増長するだけだし、自分はただ「この場に居続けるため」の手段として、どんな理不尽も引き受けるばかりで、疲弊するだけ。

 今までそんな感じで、「居場所」だと思っていた場所から離れざるを得なくなったことが、もう本当に数えきれないほどあって。

 そのときの自分に必要だったのは、何でも話せる気の置けない友人でもなく、心から頼りになる教師でもなく、「自分の頭で考える力」だったと、今になって思う。

 現状を客観視する能力、悩みに対して何が最適解かを導き出す能力、それを実行するには何が必要で何が不要かを取捨選択する能力など。
 それらがあれば、たとえ現状を「変えること」はできなくても、「変えるために何をすればいいか考えること」はできたかもしれない。

 で、これ以上、同じ失敗を繰り返さないためには。
 やっぱり「日記を書くこと」が効果的じゃないかと思う。

 これまで何度もこの本について言及しているし、自分でも日記を書き続けているんだけど。
 正直なことを言うと、嫌なことがあった日は、そんなことを書きたくなくて、つい避けてしまう傾向にある。

 でももしかしたら、嫌なことがあったときこそ、自分の心と対話するような気持ちで、日記を書いてみるほうがいいのかもしれない。
 その方が逆にスッキリするかもしれないし。

 そんなことを考えてみたけど、できれば楽しいことだけ考えていたいし、記憶に残したいのも楽しいことばかりなんだけどね。

 せっかくなら、たとえ良くないことが起きても、それを楽しむくらいの心持ちでいるほうが生きやすいのかも。
 「やった!日記に書くいいネタが入った!」って考える、とか。

 

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