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小説『五十路の恋』

(はじめに) 
 当小説は、2007年に書いたもので、当時とあるお笑い芸人にドはまりしていた自分の母親をモチーフにしています。
 なお、設定などは全て当時のままにしております。

本編


 もう二度と恋心など、胸に宿ることはないと思っていた。
 異性の姿を追い求め、見つけてはうっとりと眺めることなど、もう自分には有り得ないと思っていた。
 あの彼に出会うまでは。

 暦の上ではまだ春なのに、予想気温が初夏と同じくらいだと朝の天気予報が伝えていた。午前中のうちに食材の買い物を済ませ、昼下がり、居間で何気なくテレビのワイドショーを見ていた。
 作ったばかりの麦茶を飲みながら芸能界の話題を見ているうち、画面が切り替わった。
 「今、人気絶頂の若手お笑いコンビ登場!」とテロップが表示され、大きく映し出された二人組を見たとき、意識が急に鮮やかになった。
 左側にいる男性は、夫の若い頃にそっくりだった。
 結婚する前、よくデートで待ち合わせをしていたときのような、はにかんだ笑顔で彼は笑う。
 司会の女性タレントに紹介され、彼ら二人はスタジオの真ん中に用意されたソファに腰掛ける。
 その両脇に、女性タレントともう一人の司会である男性アナウンサーが座る。
 なおさら、照れたような顔をする彼。
 夫と付き合い始めたばかりの頃、照れくさいのかなかなか私に目を合わせてくれなかった。
 そのときの表情に、彼はよく似ていた。
「大人気ですよね」
「昨年末の漫才コンテストで優勝してから、すごいモテるでしょ」
 司会者達からそうもてはやされ、彼は照れくさそうに笑いながら「そんなことないですよ」と謙遜する。
 私の目は一点、彼を見つめていた。
 彼は相方の坊主君と一緒に、司会者から聞かれるいろんな質問に、笑顔ではきはきと答えていく。
 どの表情を見ても、若いときの夫の顔と重なった。
 この人は、私を青春時代にタイムトリップさせてくれる。
 馬鹿くさい考え。しかも、きっと周囲に告白したら痛々しいと笑われるだろう。
 毎日の生活に飽き飽きしている、五十代も半ばに差し掛かったオバサンが、たまたま抱いてしまった妄想だと。

 彼ら二人がゲストのコーナーが終わると、「もう一度、彼の姿を見たい」と思った。
 コンビ名も、彼個人の名前もしっかり頭に刻んだ。夕方、郵便受けに届いた夕刊を開くと、真っ先にテレビ欄を見て彼らが出る番組を探した。
 だが、簡単には見つからない。
 そういえば、娘がこのあいだ言っていた。
「レコーダーって便利なんだよ! 好きな芸能人の名前を登録するだけで、その人が出るテレビ番組を全部勝手に録画してくれるの!」
 我が家では昨年末、夫に出たボーナスで液晶テレビとDVD/HDDレコーダーを購入し、居間に備え付けていた。
 だが、テレビはともかくレコーダーを使いこなせるのは娘だけで、私や夫はリモコンにすら触れたことがなかった。
 娘は、暇があればレコーダーに録り溜めしてある好きなバンドの映像を見ている。
 ライブでの演奏やら、ゲスト出演したインタビュー番組やら、よく飽きないものだ。
 だが、自分も初めてレコーダーを使ってみたいと思った。
 機械は苦手で、パソコンも恐ろしくて触れることが出来ない。携帯電話なんて持とうとすら思ったことがない。
 その私が、テレビ台の棚から、レコーダーの分厚い説明書を取り出した。
一生懸命ページを手繰りながら、「好きな芸能人の名前を登録する方法」について書かれた部分を探していた。
 そのとき、「ただいまー」と玄関から声がした。
 娘がアルバイトから帰ってきたのだ。
 焦った私は、思わずレコーダーの説明書を隠そうと思った。しかしその暇無く、娘が居間に入ってきた。
「ただいま。あ、それ、レコーダーの説明書?」
 娘が私の右手を指差す。
「な、なんで分かったの?」
「だって、テレビ台の扉、開いてるんだもん」
 思わず娘が指さしたほうに目を向け、途端に恥ずかしくなった。まるで内緒で書いている日記を読まれたような気分だった。

 仕方なく娘に事情を説明すると「なんだ、そんなことか」と声を上げて笑った。
 でも、その声は侮蔑や哀れみの入った色ではなく、むしろ安心しているように聞こえた。
 娘はレコーダーのリモコンでテレビの電源を入れ、私にはよく分からないボタンを何回か押し、録画予約画面に切り替える。
 そして彼らのコンビ名と、彼個人の名前を登録した。
「これでOKっ!」
 娘は鮮やかに微笑んだ。
 ちなみに、登録したばかりの名前の下には娘が好きなバンドの名前も登録されていた。
「あのね、こうやって画面を切り替えれば、録り溜めしてある番組を見れるの」
 娘は私にレコーダーの操作方法を丁寧に教えてくれた。
 見様見真似で一生懸命、リモコンを操作し、レコーダーの番組を見る方法を覚えた。
「で、今、自動録画予約してある番組を見てみるね」
 娘は私からリモコンを取り戻すと、また慣れた手つきで操作し、画面を切り替えた。
 彼らの名前が表示され、その下に三つほど番組名が並んでいる。
「一番早いので明日の夜だよ。楽しみだね!」
 娘は私の肩を叩いて笑う。
 そうか。明日の夜になれば、また彼の笑顔に会えるのか。そして、レコーダーで繰り返し、彼を見ることが出来るのか。
 文明は、私の恋心も進化させてくれるらしい。
「ねーっ、レコーダーって便利でしょ!」
 娘が嬉しそうに笑う。ほぼ彼女専用となりかかっていたレコーダーは、どうやらこれから私も使えるものとなるらしい。

 それからの私は、機械音痴だった過去が嘘だったかのように、生活が激変した。
 家事の合間にレコーダーで録り溜めした、彼らの出演番組を繰り返し見るようになった。
 娘のパソコンを借りて、インターネットで彼らに関するHPをチェックし、大体の経歴も頭に入れた。
 娘が買ってくれた彼らの単独ライブを収録したDVDも、飽きることなく何度も繰り返し見た。
 以前は、娘が暇さえあれば、好きなバンドの出ている映像を繰り返し見ることに理解が出来なかった。「同じ映像を何度も見て、一体何が楽しいの?」と。
 だけど、気がつけば私も同じだった。
 何度も繰り返し、彼の顔が見たくて、レコーダーに溜めた番組を再生させている。
 彼らの漫才は、正直言って当たり外れが激しかったが、喋っている彼の顔を眺めているだけで私は幸せだった。
 彼の表情の一つ一つに、夫の昔の面影を見て、三十年以上前の恋心が戻ってきたような感覚にさせてくれた。
 この胸の高鳴りを感じられることが、とてつもなく幸せだった。

「ねえ母さん、今度のシルバーウイークに私、東京へ行くんだけど」
 娘が夕食後、皿洗いの手伝いをしながら言う。
「何? またライブに行くの?」
「うん、そう!」
 娘は満面の笑みでうなずく。
「母さんも一緒に行かない?」
 いきなり言われたその言葉に、驚いてしまった。
「無理よぉ。あんたの好きなバンドって、ステージの上にいる人たちもたくさん動いて汗かきながら楽器演奏して大変そうなのに、見ている人たちもみんなずっと激しく踊ってないといけないでしょ? お母さんついていけないわよ」
 娘は「違う違う」と慌てて否定した。
「そのライブじゃなくて、お笑いライブに行こうよ」
 お笑いライブ? その響きを聞いて、胸が急に高鳴った。
「新宿にお笑いの劇場があって、いろんな芸人さんが毎日コントとか漫才とかやってるの。東京に着いた日の劇場スケジュールを調べていたらさ……」
 娘は私の大好きな彼が、夜の部に出演することを教えてくれた。
「この劇場、入り待ちも出待ちも普通に出来るんだよ! 会ってお喋りできるチャンスがあるんだよ! 握手とか写真とかサインとか普通にしてもらえるんだよ!」
 嬉々とした表情で語る娘のノリに、ついていけなかった。
「費用はどうするの? それに、お父さんを一人置いて泊りがけの旅行なんて……」
「ライブ行くついでにお母さん連れてって、女二人水入らずで観光するとか言えば、許してくれるはずだよ。お金だって私が出す」
「いや、あんたにお金出させるのも申し訳ないし……」
「大丈夫、通帳にお金けっこう入ってるから」
「それに、わざわざ東京まで行くのは……」
「彼に会いたいんでしょ?!」
 娘が私の顔を覗き込んで尋ねる。思わず、目をそらしてしまった。
 彼に会いたいという気持ちはあった。だが、その夢が叶えられる可能性などゼロに等しいと思っていた。
 だが、娘がそのチャンスをくれた。
「……せっかくだから、行こうかな」
「わーい、やったぁ! じゃ、明日すぐ劇場のチケット買いに行ってくるねっ」
 娘は喜びの表情を膨らませ、楽しそうに皿洗いの続きをする。
 多少、気が重かったが、自分の本心には勝てなかった。
 彼に会いたかった。そして、一言だけでいいからお話がしたかった。

 東京は娘が大学に通っていたとき、何度か顔を見るために足を運んだ。
 だが、娘が住んでいたのはだいぶ都心から離れた場所だったので、新宿に降り立つことは一度もなかった。
 娘と一緒に飛行機に乗り、そのあとは電車を乗り継ぎ、JR新宿駅に降り立った。それまでの間ですら、ごった返す人の波に何度か圧倒され、ぶつかりそうになった。
 何とか娘の背中にくっついて改札を出たとき、窮屈な場所から抜けた気分だった。秋の心地よい風が、祝福するかのように頬を撫でた。
「さ、こっちだよ!」
 娘に手を引っ張られ、やってきたところは、JRの切符販売機に隣接されたコインロッカーの前。
 娘と同い年くらいか、それより少し若めだろう女の子たちがあちこちでたむろしている。学校帰りと思しき、制服を着て学校指定と思しきかばんを持った子たちもいる。
 ロッカーの横にある、開いた鉄柵扉の奥に、駅ビルへの通用口が見える。
このビルの最上階が、お笑いライブの会場だった。
「ライブが始まる一時間くらい前に、芸人さんたちが会場入りするんだよ」
 はぁ、と私はうなずく。夢か現かよく分からなかった。
「もしかしたら、彼にも会えるかもね!」
 娘が私の肩を叩く。
 だが素直に喜べなかった。
 もし、彼に会っても何を伝えればいいんだろう。
 五十代半ばのオバサンが、「ファンです」と言っても彼は喜んでくれるのだろうか。
 今さらながら気後れしてきた。若い子達に混じって、何十分も彼を待ち続けているのも、場違いな気がした。
「やっぱり私、近くの喫茶店にでも入って休んでいるほうがいいわ」
「ここへ何しに来たと思っているの?」
 娘が珍しく厳しい表情で尋ねる。
「だって、こういうの母さんの性に合わな……」
 そう言いかけたとき、周りにいる女の子たちから「キャー」という奇声が上がった。
 何事かと思ったら、駅の改札からこちらへ向かって、どこかで見たことがあるような顔の若い男性が歩いてきた。
 そして、何人かの女の子が駆け寄って握手やサインや写真を求めていた。
「あの人、誰?」
 私が尋ねると、娘はコンビ名と名前を教えてくれた。
 確かに、聞き覚えはあった。まあまあな有名どころだろう。
「ほら。こうやって、いろんな芸人さんが来るんだよ! すごいでしょ!」
 娘の言葉を聞きながら、笑顔でファンと写真を撮る男性を見ているうち、彼もこうしてファンサービスをしてくれるのかもしれないと思える。
 胸が少しずつ高鳴ってくる。
「待っていれば、あの人にも会えるかしら」
 独り言のようにつぶやいた。
「強く念じていれば、会えるよ」
 娘が確信を持ったような口調で答える。
 なぜか励まされたような気分になった。

 十数分、手持ち無沙汰で待っているうち、やはり少しずつ足や腰にだるさを感じてきた。
 もう若くはない。どこかへ座り込みたくなってきた。
「なんだか疲れてきたわ。やっぱり待っているのは辛いわ」
 そう漏らすと、
「はぁ? 今さら、何を言ってるの?」
 と、怒られた。
 従うしかなかったが、疲れによる辛さは消えるはずがない。胸の高鳴りよりも、しんどさの方が勝りそうだった。
 やっぱり、誘いを断り家にいればよかったのかもしれない。
 そう考え始めていたときだった。
 また周りの女の子達から「キャー」という歓声が響いた。
 改札口のほうへ目を向ける。
 すると、何度テレビの画面で繰り返し見ても飽きなかった顔が、こちらへ歩いてくる。
 彼だ。初めて見る、ブラウン管を通さない、生の姿。
 思っていたよりだいぶ背が高い。近くへ来たら少し見上げなくてはならないだろう。
 疲れなど一気に吹っ飛んだ。
 彼は私達に近づいている。でも、何をどうしていいのか分からない。
 いきなり娘が私の手を掴んだ。そして思い切り引っ張る。
 訳が分からぬまま、娘の力に従った。
 気が付くと娘と共に、彼の目の前にいた。
 きょとんとした顔をしている彼。
「あの、うちの母が、大ファンなんです!!」
 娘が言い出した。恥ずかしさで逃げ出したくなる。
 でも今さら、どこへも逃げようがない。ただでさえ、娘は私の手を強く握っている。
「だから、ぜひ会ってもらいたかったんです。握手してもらってもいいですか?」
 彼は私に片手を差し出した。
 こんな、夢のようなことなんてあっていいのだろうか。
 反射的に娘に握られてないほうの手を差し出し、握手してしまった。
 彼の手の温かみを感じると、喜びが全身に湧き上がる。
「いつも、ありがとうございます」
 彼は私の手を握りながら言ってくれる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 彼の目を見ることが出来なかったので、握ってくれている手を見ながら言った。
「ちゃんと目を見て言いなよ。私が幼稚園の頃からいつもそう言ってたじゃん」
 娘がひじで私の脇腹をつつく。
 そうだ。厳しくしつけてきたことなのに、いざとなると実践できないものだ。
 だが娘の手前、見本を見せなくてはならない。
 思い切って顔を上げ、彼の目を見た。
 半分、驚いたような顔をしつつも、笑顔を見せてくれている彼。
 ふと、その顔に三十年前の夫が重なった。
 その途端、溢れ出す想いを口に出さずにはいられなかった。
「あなたを見ていると、若い頃の気持ちに戻れるんです」
 一瞬、彼が戸惑ったような顔をした。だけど臆することなく続けた。
「顔を見るだけでドキドキしたり、姿を見れなくてせつなくなったり、こんな気持ちに久々になれたのはあなたのおかげです。たくさんの幸せをくださって、ありがとうございます!」
 そう言って、礼をした。再び顔を上げると、彼はさっきの笑顔に戻ってくれていた。
「いや、そうおっしゃってくださるなんて、僕も嬉しいです。ホンマに」
 聞き慣れた彼のイントネーションで言ってくれる。
 とてつもなく幸せだ、と思った。
 娘に背中を押され、彼の前に辿り着き、こうして思いの丈を告げることが出来た。
 そして、彼からもお礼の言葉を返してもらえた。
 なぜだか、これからも生きていく勇気をもらえた気がする。
 彼にも、娘にも。そして、夫にも。
「これからも、応援よろしくお願いします」
 彼が私の手をより強く握ってくれる。
 私も強く握って返事の代わりにした。
 彼は手を離すと、深く礼をしてくれた。
 律儀な人だと分かって、更に嬉しくなった。
 彼は通用口へと歩いていく。また他のファンに囲まれていた。
「あ! サインと写真、頼むの忘れたね!」
 娘が焦ったように言うが、私には必要なかった。
 彼と出会えて、伝えたいことを伝えることが出来て、きちんと受け止めてもらえただけで十分だった。

「東京、どうだった?」
 旅行から帰ってきた私達に、夫が居間で新聞を広げたまま尋ねた。
「楽しかったよ。空港で買ってきたバウムクーヘン、冷蔵庫に冷やしておくからね」
 娘がキャリーケースからお土産の箱を取り出し、台所へ行ってしまった。
「観光、どこ行ってきたんだ? 浅草か?」
「浅草ねえ……」
 私は新聞に目を向けたままの夫を見ながら、言葉に詰まった。
 浅草どころか、どこにも観光になんて行ってない。彼に会えた後はお笑いライブを楽しみ、翌日は思いきって娘の好きなバンドのライブへついていった。二時間立ちっぱなしで、踊るとまではいかなくても体を揺らしながら、彼らのステージを堪能した。
「いろんなご利益がありそうよ。これから」
 最低限のことだけを伝えた。大好きな彼に会えただけじゃない。娘の好きなバンドのライブも始終、幸せで笑顔に満ちていた。
 ステージの上のメンバー達も、周りのお客さんたちも。
 バンドの追っかけをするために仕事を辞め、アルバイトをしながら全国のライブへ駆け回っている娘の気持ちが、何となく分かった。
 彼女も私も、大好きな人たちから力をもらっているんだ。
 だから、夫にもずっと元気でいてほしい。
「お父さん、いつもどうもありがとう」
 そう言うと、夫は驚いた表情で顔を上げた。
「いきなり何を言ってるんだ、お前」
「本心を言っただけよ」
 心から微笑んだ。夫は不思議そうな顔をしていたが、悪い気はしていないだろう。
 いつまでもこの幸福感を持ち続けていたい。
 首をかしげながら再び新聞へ目を落とした夫の横顔を見ながら、強く思った。


※ 当小説内に出てくるお笑いライブの劇場は、新宿にある「ルミネtheよしもと」をモデルにしていますが、現在は出待ち入り待ち禁止とのことです。

もしサポートをいただければ、とても嬉しいです。自分の幸せ度を上げてくれる何かに使いたいと思います。