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8月31日、『さみしい夜にはペンを持て』の感想を書いた。

 先日、この本を読了した。
 中学生だったときの自分に読ませたい本だと思った。

 10代の頃、ノートに日記、というより、日々の生活の中で考えていることを書き連ねていたことがあった。
 でも、途中でやめてしまった。
 なぜかというと書く内容が、他人への悪口、自己憐憫、現状への不満、しまいには自分自身を罵倒する言葉ばかりになっていたからだ。
 まるで自分に呪いを掛けているような気分になり、恐ろしくなった。

 でも、それはそもそも、書く内容を間違えていたのだ。
 この本を読んで気づかされた。
 私は「書く」という行為を、一時的なストレスの発散にしか使っていなかった。
 ただ感情的に、一方的な思いを書き綴っていた。
 それは、目の前にある問題の根本的な解決に繋がらない。

 古賀さんの著書については、『幸せになる勇気』も読んだことがある。

 その中で、以下のようなことが書かれていた。

 あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聴いてくれる人がいようと、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決には繋がらない。

(p.71)

  10代の私がノートに書きなぐっていた言葉は、まさに「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」のオンパレードだった。
 実は今も、その時々で思ったことをノートに書き綴っているのだが、そういえばそちらでも、気がつけば「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」のオンパレードになることがある。

 『幸せになる勇気』では、上記の言葉のあと、「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」ではなく、「これからどうするか」について考えることの重要性が述べられていく。
 そちらでの詳しい内容は割愛するが、『さみしい夜にはペンを持て』では自分一人で「これからどうするか」を考えるために、日記を書く方法と、その重要性を教えてもらっている気がした。

 毎晩、日記を書き続け、また読み返していくことで、自分の現状を少しずつでも俯瞰することができるようになるのではないか。
 そして、自分自身だけでなく、他者に対しても、いつしか冷静かつ客観的な目線で見ることができるようになるのではないか。
 そう思った。

 以下、ふわっとしたネタバレになるが(知りたくない方は、この一段落だけすっ飛ばして読んでください)。
 この本に、劇的なハッピーエンドはない。
 でも、この結末には逆にリアリティを感じた。
 文章を書くようになったからといって、すぐに何か、魔法のような出来事が起こるわけでもない。
 でも主人公のタコジロー君の10年後や20年後は、日記を書き続けるか続けないかだけで、だいぶ違ったものになるかもしれない。

 文章を書くことが、何かの痛みや苦しみに対して速攻で効くことはあまりないと思う。
 ただ、丁寧かつ真摯に日々、積み上げていく言葉は、いつしか未来の自分を励まし慰め、支えてくれるものになるかもしれない。

 タコジロー君と同じように、日々の生活に悩んでいる中学生、いやそうでなくても、日々、何かに悩んでいる人たちに伝えられる言葉なんて何もない。僭越にもほどがある。
 でも、かつての私は書くことで傷つくこともあれば、救われることもあった。
 正直なところ、この文章は、10代の頃の自分に宛てて書いているものかもしれない。

 「さみしい夜にはペンを持て」を読んで、自分の10代の頃の辛さや苦しさが蘇ったような気がする。
 だから、今日8月31日という日付が、なぜかいつもよりも重く感じるのかもしれない。
 でも、思い出した悲壮な気持ちを「書くこと」で抜け出したいとも考えた。
 だから今、この文章を書いている。

 言葉は、救いになることもあれば、呪いになることもある。
 でも、『さみしい夜にはペンを持て』は、日々の自分の生活を言葉で彩っていくことにより「自分の気持ちを大切にしていく方法」を教えてくれている。
 何一つ、根本的な解決策や、魔法のような変化が起きなくとも、日記を書き続けることで、自分という味方がそばにいることを実感できるようになるかもしれない。そう思わせてくれる本だった。


 

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