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当事者、Say

自分は何の当事者性をもつのか?(自分は、どのような当事者性を帯びるわたしなのか?)という問いを目の前に置いた時、こたえは、ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽ、と浮かぶだけで7つくらいある。


なかには、死ぬまで隠し通したい当事者性もあれば、人生のタイムラインのどこかで運動主体として振る舞いたいと思う当事者性もある。

人というのは複数の当事者性のサラダボウルみたいなものかもしれない。

当事者性は、ひどく自分を苦しめるもの、自らに呪いの呪文としてつきまとうものもあるだろうし、個性を彩ってくれるかもしれないものや、ミッションを呼び覚ますものもあるかもしれない。

ライフステージや出来事により、ボウルに加わる当事者性は増えたり消えた(と思って実は息をひそめるように冬眠していることもある)りする。
ボウルの中の当事者性同士が反発しあったり、癒着することもある。

当事者性の濃度やボウル(わたしという器)への侵襲性も、様々な因子が引き金となって変わる。今はいい感じに飼い慣らすことができていると思っていても、何かの拍子に首元を掻っ切られそうになる当事者性もあるだろう。

わたしは、「言葉という鎖で当事者性から生まれる獣をコントロールする」という二重の言語的用法を採用し、経験を語り直しタンスにしまい直す作業を数年に一度している(これは心理学的にもエヒデンスのある作業らしい)
けれども、当事者性という獣が、首を掻っ切りに来るとき、言葉は思った以上に役に立たない。でも、獣に傷を負わされた後の敗戦処理と次回戦闘に備えた予防的措置を講じる時には、言葉は幾分か役に立つ。ゆえに、だから、自らの言葉を信じることができる。言葉への信頼は、その繰り返しで獲得してきたようにも思う。

また、自らが自認する当事者性たるものも、それと同質のものをもち、かつ、開示している他者がどれくらいいるのかによって、それが社会的な「恥」を自らに刻印するか、抑圧からの解放を志向する連帯のキーになるかも変わるように思う。

そう考えると、当事者性とは、いかんせん、取り扱いが難しい概念だ。


願わくば、自らの当事者性を気に揉んだり、それに呪われたりすることなく、生きることができるならば、「楽さ」なるものは増えるだろうが、「楽さ」のクッションによって、「落差」のない人生を望むか否かというのは、個々人によって異なるだろうから、やはり難しい、取り扱いが。なおさら。


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今日の一冊

トラウマについて語る声を「環状島」という概念を採用して論じた本書。

被害者は環状島の<内海>に沈む、と著者は言う。

「発言権や証言者としての正統性は、たしかに中心に近づくにつれて高まるかもしれない。けれども、実際には被害が大きすぎた人は死んでしまって、発言をする機会をもたない。また生き延びたとしても、発言するためにはある種の条件、能力や資源が必要となる。知的能力、コミュニケーション能力、論理性などは不可欠だろうし、聞き取る者と同じ言語で話す能力、識字能力も求められるかもしれない。説得力を持たせるには、演出力や社会的信用も必要になるかもしれない」

当事者を自認し、声を上げようとする人が、今、環状島のどこにいるのだろうか、と思う。自分の当事者性にも目を向けながら。


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