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クライアントに対し自身が「期待するストーリー」を当て込んだ経験から学んだこと

過去、中途障害のクライアントの方から「あなたは言葉少なで、まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね。あなたからはわたしと同じにおいがするのよ。ね、あなた、昔、大変なおもいをされたのでしょう」と言われ、ギクリとしたことがありました。


「まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね」


この一言は、「わたしは、自身の想像力不足(もしくは怠慢)を埋めるために、自身の想像力の範囲内で調達できる安易な「期待するストーリー」を当て込んでいる」という事実を気づかせるに十分なものでした。

わたしは、その方に対して、「壮絶なエピソードを乗り越え努力してきた人」というストーリー、人間性のようなものを「求めていた」のです。

「まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね」という言葉は、「中途障害のエピソードの惨さ」を前に多くの他者から勝手に「期待するストーリー」を織り込み続けられてきた経験、そして、わたしが、数多の他者と同様の気配をまとっていたため、出た一言だったのでしょう。

そして、また、「ね、あなた、昔、大変なおもいをされたのでしょう」という一言は、「期待するストーリー」の「期待度」を大きくさせている私自身の価値観までをも裸にするかのような言葉でした。

私が、その方に対して当て込んでいた期待するストーリーを通して、私自身の当事者としてのリカバリーの過程で自身に対して付与したストーリーを強化していたわけです。全くそのような自覚はありませんでしたが、「ね、あなた、昔、大変なおもいをされたのでしょう」という言葉は、私自身が意図していなかった、目論見までもあらわにさせたのです。



この経験から痛感したことは、「わからない、理解できない」ということに出会った時に、援助者側の価値観が露になった「期待するストーリー」のみを用いて、その人をラベリングしたり、理解した気になっていないか、という自己点検が必要だということでした。

なぜなら、誰かを理解しようとする行為は苦痛を伴います。それは、理解しようとする行為は、自分の容量の中に他者を収めていこうとするのではなく、自分の容量を自覚し、拡張した上で、相手を包み込もうとする行為なのだと思うからです。

だから、誰かを本気で理解しようと思ったら、そこには自分の容量の少なさに気づく苦痛や、自身の価値観を裸にされるかもしれないという恐怖が待っており、その苦痛や恐怖を回避しようとして、人は自分勝手な「期待するストーリー」を他者に求めたりしてしまうのではないか。

「あなたは言葉少なで、まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね。あなたからはわたしと同じにおいがするのよ。ね、あなた、昔、大変なおもいをされたのでしょう」

今でも、ふとしたときに痛みや恐怖の残渣とともに思い起こされる、一言です。


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