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”信頼”の機能についての雑感

信頼の機能

ケアの受け手は、極論、ケアの提供者に生殺与奪の権を握られているという前提に立つとき、受け手が「この人は信頼できる」と思えるならば、「強引に口の中にスプーンを突っ込まれるかもしれない」と思わずに済む=不安や恐れが発生する頻度を下げられるため、「信頼」は恐怖や不安を縮減する機能として働く。

受け手が「この人は信頼できる」と思える=「強引に口の中にスプーンを突っ込まれるかもしれない」と思う不安や恐れの発生頻度が低減されている状態は、ケアや支援を提供する者の知識や技術を対象者の利益となる(と提供する側が判断する)形で提供しやすくなる。


信頼とは賭けることである

信頼関係とは、あたかも双方向であるような評され方で出現する言葉だけれども、最初に受け手にBetさせようとする意図や欺瞞が紛れているような気がする。加えて、支援者側が最初にBetするとしても、それは、生殺与奪の権というカードをすでに持っている以上、対等な「賭け」にはならない。

非現実的な話だが、対等な「賭け」引きによって信頼関係を築くこと志向するならば、支援者側もまた、自身に何かしらの不安や恐怖が発生する状況下に身を置くか、はたまた別の、「信頼によって縮減されるなにか」を関係の場に差し出さなければならないのではと思う。

自分も不安や恐怖が発生する状況下に身を置く、はたまた別の、「信頼によって縮減されるなにか」を関係の場に差し出すことが無理であることを承知したならば、”信頼”は目的を持った機能的作動を期待されたものであり、”構築”は、まずは受け手に賭けさせることからはじまるものであると認めざるを得ない。


新人は不安や恐怖を場に差し出している

また、新人がときにビギナーズラックと評されるような信頼を得るのは、パターン認識ができず対応することの不安、相手の信頼を得なければならない、支援者らしく振る舞わなければならない等の恐れが相手に感知可能なほどに漏れ出し、それが結果的に対等にbetし合う条件を満たすからなのかもしれない。

と考えると、支援やケアの提供者が自身の不安や恐れを縮減するのは、キャリアとともに積み上げた自らの知識や技術を含むプロフェッショナルとしての我への信頼、であるのかもしれない。としたならば、やはり信頼関係という双方向な表現は腑に落ちない。


信頼を発生させる欺瞞の技術

”信頼”を目的を持った機能として作動してもらうべく相手の中に発生させるスキル体系には、欺瞞の技術としての個別化らも含まれているように思う。

信頼を発生させることで権力を不可視化する試みとしての欺瞞の技術体系構築のトリガーとなるのは、やさしさではなく、どうすれば我々のパワーによって、相手に我々が望む変化を生じさせるか、という傲慢さも含まれるのではないかと想像する。

支援やケアにおいてディフォルトで埋め込まれている権力、という一文をダラダラと書くと、上述したことも含まれるのだろうな、と。

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