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【Forget-it-not】第三十七話「人間は自分のために頑張れるほど強くはない」
私は相も変わらず悩んでいた。しかし、雪乃と話したことで問題に対する解像度は格段に上がった。
私は美春を家に呼び、二人きりの時間を作った。昼、夕、夜と、時間は目まぐるしく過ぎてゆく。湯舟で雪乃の言葉を何度も思い返し、美春に話す意志を固めた。
風呂から上がると、hairdryerを持った美春に促がされ、座布団の上に座らされた。美春が膝立ちになって私の髪を乾かす。
蝶が舞うように彼女の両の手のひらの動く気配がする。決して熱くはない温風と美春の愛撫が心地良い。自分の髪を乾かすのは面倒なので、こうしてもらえると有難い。櫛を通されながら冷風を当てられると眠気がやってきた。
「はい、おしまい」
私は礼を述べる。口を開いたついでに決意表明をしたかったが、話すと逃げ道が閉ざされそうな気がしたため、意志は淡雪のごとく消え去った。
就寝の時刻になっても言えなかった。美春は布団を敷いている。私はbedに腰かけ、遠操機を持ったまま、わるいことをして母のお叱りを待つ子どものように俯いた。
美春の視線が私の顔に向くのが分かった。
「もしかして、いっしょに寝たい?」
「え?」
顔を上げる。
「なんかこう、言いたいこと言えなそうな顔してるからさ」
もどかしい。
私は枕を握ると床に頽れ、緩々と布団に入り、頭から掛け布団を被って電気を消した。
「あれ。布団だとせまいんじゃない?」
と言いつつも、彼女は布団に入ってくる。
「こっちの方がいいかな」
「ふぅん?」
この前と同じように私が左で美春が右だった。けれど以前よりもずっと距離が近い。美春の輝く片目と目が合う。
「それで? 瑠璃ちゃんはなにに悩んでるのかな」
「……分かるの?」
「今日一日、っていうか、こないだからずっと変だったし」
美春は苦笑する。吐息が鼻にかかってこそばゆい。
私はため息を吐くように呟く。
「両親に会いに行こうと思うの」
「そうなの?」
美春はひどく優しい声色で言った。
「うん」
私は謎を解く鍵は私と両親との再会ではないか、と話した。
「なるほど」
「考え過ぎかもしれないけれど」
美春は微笑む。
「なんにせよ、両親と仲直りしたいっていうのは自然な気持ちなんじゃないかな。よっぽど酷い親ならともかく、瑠璃の両親はそうではないんでしょ?」
「うん。親から受けた愛情も、ついさっき起こったことのように思い出せる。両親共に不器用だったし、親とはいえ、二六時中子どもを愛せるわけではないのもよく分かる。ただ、いくら頭では分かっていても、心は全然わかってくれない。良い記憶を地層のように積み重ねても、そこに時間と心の隔たりを感じてしまう」
「瑠璃はなにが怖いと思う? 具体的に」
近頃考えていたことをそのまま話す。
「拒絶されること。言いたいことが言えないこと。現状が何も変わらないこと。他にも、たくさん。失敗も忘れられないから、それも怖いかな」
「そうだよね。じゃあ、もしも怖いことがほんとに起っちゃったら、瑠璃はどうなるかな?」
「凄く傷付くし、心に穴が空いてそこに吸い込まれて死ぬんじゃないかな。一生記憶がフラッシュバックしてその度に眠れなくなると思う」
「それは大変だ」
美春は黒漆の髪を羽毛が落ちるように撫でると、私をおもむろに抱きしめた。
「大丈夫だよ。拒絶されてもわたしが全部受け入れてあげるし、言えなかったことは、声が枯れるまで聞いたげる。なにも変わらなくてもわたしたちがなんとかするし、心に穴が空いたら埋めてあげる。傷ついて辛いときも、怖くて眠れない夜も、ずっとそばにいてあげる。大学もやめてこっちで働くからさ、いっしょに住もうよ。うん、それがいいよ。お姉ちゃんがいなくても、お母さんたちがいなくても、わたしがずっとそばにいるから。だから大丈夫だよ」
名状し難い感情がとめどなく溢れ出る。私は彼女の腰に手を回し、抱きしめ返す。私がずっと欲しかった言葉。私を白雪瑠璃として愛してくれる人。それが今この瞬間の世界に在ること。人生において、それ以上の幸福はないだろう。
「ありがとう。私、がんばる」
「うん」
美春は私を愛しむ。優しい手で撫でてくれる。温かい体温で癒してくれる。美春も、雪乃も、輝夜も、千夏さんも、そして他の皆も、私を想ってくれる人はこの世界にたくさんいるのだ。
ああ、そうだ、すっかり忘れていた。人間は自分のために頑張れるほど強くはないけれど、他人のために頑張れるくらいの強さはあるのだ。彼女たちのためなら私は、どんな困難をも乗り越えられる!
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