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表現の自由の裏側をのぞいてみる【とある愛知者の日記】

世の中には表現の自由と称して好き放題する人たちがいるらしい。街のしみったれた看板に枯れ葉と見紛うようなわいせつ物を貼り付けたり、灰色の壁をカラフルにしてみたり。自分のつま先ひとつ見せたくない人間からするとまあ、ある意味ではすごいと思います。

彼らはこのような方便を使うそうですね。

表現の自由の重要性を主張するため、また今の社会の道徳性を変えるため

https://news.yahoo.co.jp/articles/a364a15e382eac465d3ee83b4996f5e3d2142a62

道徳の欠片もない人間が道徳を語るとは面白い。現代の道徳はたしかにしょうもないなぁとは思います。しかし、彼らの道徳は原始人とそう変わりないレベルなのではないでしょうか。どちらが優れているかといえば、流石に現代道徳に軍配があがります。

彼らの言うのように、表現の自由は大切です。大日本帝国やソ連のようになってしまえば芸術家は死に絶え(現代日本でも死んでいるのはなぜでしょう!)、テレビではよくわからない謎のおじさんたちを賞賛する番組が延々と流れ続ける。まさに地獄。そんな社会は絶対にイヤです。

とはいえ自由に表現した結果、善良な市民の顔をしかめさせるのならその表現はやめたほうがいい。それは法律がどうのという話ではなく、人間として云々の話なのです。人は誰しもが善人として生まれる。肌の色や性別で差別をする赤ん坊などどこにもいないですからね。それがどうしてか社会の規範とやらを学ぶうちにどんどんと悪に染まっていく……。

悪は常に想像力の欠如から生まれる、と私は思います。犯罪者は他人の痛みを想像することも、自分が手錠をかけられ絞首台に運び込まれる様もイメージできない。これは大衆一般にも大なり小なり当てはまります。人々は大人になるにつれ想像力を失っていきますから。

小さいころはちょっとした風景や出来事に感動していたのに、成長するにつれて『ふぅん』としか思わないようになってしまう。歩道橋で夕陽に感動して立ち止まっている人を見かけたら『青くさいねぇ(笑)』と思うか、シンプルに邪魔だと思うことでしょう。

感性の劣化する要因のひとつとして、教育の過ちがあるように思えます。子どもから自然との戯れを奪い去り、スカスカの骨になったおじさんの名前や無機質な記号を頭に叩き込む。記号の先には受験の勝ち負けしかない。だからこそ人々は、SNSにおいて他人を傷つけ、あるいは死に追いやるのでしょう。自分が勝てれば気持ちがいいから、記号の先に誰かがいることを想像できないから。

都知事選のポスターの問題も同じベクトルのうえにあります。彼女らは自分が目立てて気持ちがいいからやる、その結果、他の人がどう思うかは考えない。しかし完全な悪人になれるほど心が腐っていないから、表現の自由や道徳云々の話を持ち出し、自分たちの行為を正当化してどうにか理解を得ようとする。

言ってしまえば彼女らは承認の奴隷なのです。とにかく目立ちたい、灰色の人生をカラフルにしたい、だれかにわたしの生き様を見てほしい。けれども正攻法では通用しないから、邪道に走るほかはないのです。

しかし、真の自由な表現とは、社会が押し付けてくるモラルに縛られず、自分の信念をもって創造されたものです。その信念は常に根本的に善なるモノから生じなければいけない。なぜなら人は善良でなければならないからです。赤ん坊のころに立ち返ればだれしもが善良なのだから。

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