![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144871787/rectangle_large_type_2_9ba5b8e1c7a3e74d702b1aa8c55d894a.png?width=1200)
尾崎豊はなぜ盗んだバイクで走り出す必要があったのか?そして尾崎の孤独とは
26歳の若さで夭折した天才アーティスト、若きカリスマ、十代の代弁者、大人たちへの反抗。世間による彼の印象はそういったものであります。無論、真の尾崎ファンなら承知の通り、彼はそのようなアーティストではありません。
尾崎は心を写す鏡である
尾崎の歌は、中二病を患った人間が聴けば中二病に聞こえ、不良が聴けば不良の味方をしているように聞こえる、芸術的思考を持つ者が聴けば芸術になる、いわば重層的な構造を持つ音楽であります。
元・尾崎ファンを自称する者のブログその他を読むと、私はもうそれはそれは心底あきれ返ってしまいます。彼らの書く記事には『尾崎は若さゆえの自分勝手なわがままを大人たちに押し付け、軋轢を生んでいた』といった文言が見られるからです。しかし、私からすればそういった意見こそが自分勝手でわがままな戯言にすぎません。尾崎の表面しか見ていないにも関わらず、彼の芸術を解った気になっている哀れな人々。彼らは豚に喰いつき、ついにはみずからが豚と化したのです。
15の夜を例にあげてみる
では、具体的に尾崎のRock'n Rollがどう芸術的なのかを解説します。解説をするにあたって、まずは尾崎の言うRock'n Rollの定義を確認しなければいけません。ここを通らなければ彼の神髄は見えてこないのです。
嫌なことや、自分を押し潰そうとするものや、そういったものに対して、自分の感性を信じて、YESやNOをはっきり言うことができた。それがRock'n Rollだと思う。
ここで言う嫌なこと、自分を押し潰すものは、世の中の間違ったルールや人を傷付けるモラルのことであります。そういったものにはっきりと自分なりの答えを示すのが尾崎のRock'n Roll、ということになります。
では彼の信念を確認したところで、15の夜の歌詞の意味に参りましょう。
15の夜の冒頭において、尾崎は教室のなかにいます。授業が退屈なあまり教科書に落書きをし、それに飽きると外を見て、超高層ビルの上の空に届かない夢を見る。やりばのない気持の扉を破りたいと思い、休み時間になると校舎の裏でしゃがんでかたまり、背を向けながら煙草をふかす。見つかれば逃げ場もないのに。そうするわけは心のひとつも解りあえない大人達をにらむため。
ここでの尾崎たちは大人達に反感を持ち、煙草をふかして不良ぶっています。しかしあくまでも〝ぶっている〟だけであって、不良そのものではありません。彼らは悪態をつきつつも律儀に学校に登校し、退屈だと思いながらも授業を受け、煙草をふかす時もわざわざ校舎裏という大人達のいなさそうな場所へ移動し、大人達をにらむと言いながらも背を向けている可愛らしい生き物です。つまり、尾崎たちはちっぽけで半端ではっきりとした答えを出せない存在として描かれていると言えましょう。
〝超高層ビルの上の空に届かない夢を見る〟は「Forget-me-not」と繋がっています。即ち、
初めて君と出会った日
僕はビルのむこうの空をいつまでもさがしてた
15歳の彼は大それた夢ばかりを見て、近くにある大切なものを見失っていた。それが数年経つと、街にうもれそうな小さな花(=身近にあるもの)が大切だと気が付くんですね。
ちなみに〝上の空〟は地味にうわの空とかかっています。彼は言葉遊びにも長けているんですね。
次のシークエンスでは仲間達が家出の計画をたてます。なぜなら学校や家(=大人達の支配する場所)に帰りたくないから。自分の存在とは何なのかさえ解らずに震えている15歳の少年達――しかしこれ以降、仲間達は一切出てきません。つまり仲間達は家出の計画をたてながらも実行には移さず支配を受容してしまった。唯一行動に移したのは尾崎だけ、という孤独感がここに暗に描かれているのです。
自分の存在が何なのかさえ〝解〟らない、というのは大人達の支配にはっきりとYES/NOを突きつけられないどっちつかずな態度を意味します。存在が確定しないまま『どうしよう』と悩む不安定な少年たちの心理を描きつつ、彼はRock'n Rollを行う決意を固めた旨を表現する。ここから彼の暗中模索の日々が始まります。
ここまではそう難しくはない話なのですが、曲者はサビから。
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜
有名な歌詞ですよね。ここでやってはいけないのが歌詞の意味をそのまま解釈すること。現代人からすれば『ぬしゅんだべぇくで走りだしゅなんて倫理的なじゃない!じつにけしからん!』となってしまいます。しかしそれは現代人の曇った目で見た尾崎に過ぎません。尾崎が曇っているように見えるのは、見る人の目が曇っているからなのであります。
さて、なぜ尾崎は「夜に」「バイクを盗む」必要があったのか?
どうして分からぬではなく「解らぬ」なのでしょう?
尾崎にとっての夜
簡単に言えば、尾崎にとっての昼は大人たちの支配する時間なのです。朝目が覚めて教室に行けば、みなが当たり前のように登校し、固く冷たい椅子のうえに座る。そこへ大人がやってきて、あたかも説教壇に立つ宣教師のように、上から目線で教鞭を執る。そんな日々が毎日毎日、夕方まで続く。だからこそ自分を縛る大人たちのいない夜に逃げ込む必要があった、そう考えるのが妥当でしょう。
盗んだバイクである必然性
車ではなくバイクを盗んだ理由は? この問題を解くには具体的な物を抽象化するテクニックを要します。即ち、
1.車は鉄のフレームの付いた箱である
2.車には多数の人間を詰め込める
あれれ~? この構造どっかで見たことあるなぁ? と思った方、そうです、車は学校と全く同じ構造をしているのです。何故なら学校を形作る校舎は、鉄筋コンクリートでできた複数人の生徒を詰め込む箱。それと同じ物で逃げても自由にはなれないのです。
一方のバイクは基本は一人で乗るものです。車のように四方を囲うフレームはなく、外の空気とじかで繋がっている風通しのいい乗り物。けれども完全に孤独な乗り物ではない。バイクには、愛する人を一人乗せられるくらいのスペースがありますからね。
しかし、けっきょく盗んだバイクは他人から拝借したものでしかなく、その延長線上には自由はない。これは人生と同じです。私たちは日々、だれかのアリガタイお言葉を拝借し、なにかから救われた気になっている。権力を持つおじさんに媚びへつらい、他者の権威のマントを盗むことで、なにか自分が偉くなった気になっている。しょうもない商品にすごそうなキャッチコピーを貼りつけ、無垢な市民からお金を奪って「お金持ちのオレしゃまはしゅごいんだぁ!」などと威張っている。
彼らはみな「わたしは悩みから自由になれたわ」「あいつと比べれば俺は自由だ、なにせ権力を盾につけてるんだからな」「たくさんお金があれば自由を買える!オレしゃまのようになりてゃいヤツはオンラインサロンに入会しる!」などと言っている。
尾崎はそういった自発的ではない仮初めの自由を暗に否定しているのであって、決してバイクを盗む俺カッケー! などと思っているのではないのです。
だからこそ尾崎は二番の歌詞で
冷たい風 冷えた身体人恋しくて
夢見てるあの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける
と書いているのです。本当はあの娘を乗せて一緒にどこかへ行きたかった。しかし盗んだバイクでいくら走っても、本当の自由は得られないことを彼は知っている。だからあの娘とサヨナラして、自動販売機で買えるちいさなぬくもりを享受するほかはなかったのです。重要なのは、このときの尾崎はうすうす『ちっぽけな幸せも大切なのかもしれない』と気付き始めていること。Forget-me-notに続く伏線が貼られているのであります。
なぜ「分かる」ではなく「解る」なのか
私たちは真の芸術家の感じる微妙な言葉の響きを捉えねばなりません。即ち、「分かる」には外部から入ってくるイメージがあり、解るには内部から湧き出てくるイメージがあるということ。
たとえばカフェで友人と話しているとして、
「ねぇねぇ〇〇くんってかっこよくな~い?」
「分かる~!」
とは言っても「解る~!」とはなりませんよね。いやいやなにを解いてんねん! と思うことでしょう。逆に物凄く難しいテストの問題が解けたときに「分かった!」と言うのはなんだか軽すぎる気がしませんか? この場合はあくまでも「解った!」が正しい表記なのです。
このように「分かる」にはケーキのような単純な構造物を切り分けるようなかるい響きがあり、「解る」には雁字搦めの複雑な構造物を解きほぐすといったニュアンスがあります。ケーキを解くもからまった糸を分けるのもおかしいですよね。
さらに言うと、「解かる」ではなく「解る」と書いたところにも、尾崎の言葉に対する真摯な態度がうかがえます。
たとえばですが、「よるのお空にはお星さまがきらきらとかがやいていました」と「夜半の空には星々が燦然と耀うていた」なら後者のほうが気難しく感じられますよね。尾崎はひらがなをひとつはぶくことで問題の難度を表現したのです。
次の場面に行きましょう。
恋の結末も解らないけど
あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる
この場面での二人の関係はまだ愛ではなく恋であります。愛や恋というのは定義のあやふやな概念でありますが、彼にとっての愛は身近なもの、恋は遠いあこがれの境地だと思われます。上記の歌詞における二人は、お互いの理想的な生活を想像する(=夢を見る)だけで、現実的な諸問題は見えない段階にあるのです。
そこから面白みのない授業が全てである〝ならば〟ちっぽけで意味のない無力な夜でしかないと続きます。けれどもそれは〝そうであるならば〟という仮定の話であって、実際の尾崎は心を捨てろと云う大人達の言葉を「俺はいやなのさ」とやさしく拒否し(嫌ではなくいやであることが重要です)、あの娘との純な夢を追うことを宣言します。
ラストのサビでは、なおも煙草をふかしながら星空(=遠い理想の恋の夢)を見つめ、自由を求め続ける。ここでは未だ自動販売機のような身近な光よりも遠くの光を見ています。それがForget-me-notになると身近なものに代わり、あの娘との恋は愛に変わる、といったところでしょう。
この曲が真に語っていること
まとめると、どっちつかずの(=ロックンローラーではない)尾崎たちは大人達のいない夜に自由を求めて走り出そうとした。しかし実際に行動を起こしたのは尾崎のみで、彼はたった独りで夜の街を駆ける。だが、どれだけ走ろうともそこには真の自由はなく、あくまでも自由を求め続けるに留まる。
この歌詞と尾崎の行動を比較すれば尾崎の伝えたいメッセージが導き出せます。これ以降、尾崎は大人達のいる昼に繰り出し、昼の街でRock'n Rollを歌い出す。そして十七歳の地図やScrambling Rock'n Rollに続いていく……。
このように尾崎豊の楽曲の歌詞は非常に繊細な技巧が凝らされているのであります。そして彼の抱えていた孤独のエッセンスがこの歌詞のなかにあるのです。
尾崎の孤独
普通の人間から見れば、尾崎は社会的な成功を収めた恵まれた人間に見えることでしょう。しかしながら人間の幸福は社会的な成功のなかにはなく、個人間の心の結びつきにあるがために、彼は決して幸せとは言えない状況にありました。
彼の周りの人間の多くは、欲望を叶えるための手段として彼を利用していただけ、というのは彼に関する書籍にも書かれています。どれだけ愛や夢や自由を歌っても、となりにいる人一人変えられない苦しみは計り知れません。延々と穴を掘っては埋める作業を正気を保って続けられるでしょうか?
彼が求めていたのは、自分と同じ土俵に立って戦う同志だったのだろうと思います。デビュー前の彼は拙いながらも必死に表現し、戦っていた。戦うというのは大人達への反抗ではなく、自分の弱さとの戦い。なにも受け入れられず、悪態ばかりついてだれかを、そしてなにかを愛せない弱き自分との戦いなのであります。彼のプロデューサーであり、最も近くで見ていた須藤晃氏は雑誌のなかでこう書いています。
「卒業」は体制に対するプロテスト・ソングではなく、内省的なエレジーだった。
つまりは社会に対する抗議の歌ではなく、個人的な哀歌ということです。自分を分かってくれる人がいない、自分と同じように行動を起こす人がいない。彼の孤独とはそういうものであり、これは真の天才に共通する悩みでもあります。
これまでの私たち尾崎ファンは、彼に与えられるばかり、彼に救ってもらうばかりで、彼や、あるいは自分の周りの人々に愛を与え、救おうとしてこなったのではないか、と私は思うのです。彼は天高く輝く昼の太陽というよりは、歩道橋から見える焼けつくような夕陽――私の目には、夕陽は地平線に近く、目視することができ、涙の浮かぶ瞳のように見えます――だったのではないでしょうか。私たちがやるべきは、ありのままの彼の姿を信じ、そして受け止めることにあるのではないか、と私は思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?