自分の人生を振り返る(4)

 もう少し文章を整理して書くよう意識した方がいいように思うものの、思いつくままに書いていくと文章も進むので、このまま進めさせてもらおうと思う。
 ネットの数ある駄文のひとつにすぎないのだから、それくらいでいいはず。たまに誤字があるが、そこは広い心でスルーしてほしい。

人生とは何だろう――中学校時代①

 中学生時代は、これと言ってあまり特徴は無い生活だった。集団の中で、孤立しながらも自分の立ち位置というものを理解し始めていたからだと思う。
 孤立しがちなら、わざと目立てば良いのだし、他の人間と違う立場に立てば良いだけだと気づいた。他者の感情が理解できないから、多人数の前に立っても緊張することもなかったし、クラスの代表となる立場に立てば活躍することを義務だと考えた。和を乱すのではなく、意見を集約する立場に立てば私は不利ではなかった。意見は山のように頭の中にあったし、昔から悪目立ちばかりしていたから、学年内では有名だった。
 だから、学級委員の活動を始めた。いや、だからはおかしいか。そもそも、その立場を嫌がるクラスメイトたちに呆れて手を上げたのが始まりで、それが性に合っていたから、そのような結果になっただけだった。
 人の嫌がる立場に立てば、ずれていても少しは受け入れられるらしい。

 一方で、周囲の人たちが変わっていっているのもなんとなく分かっていた。小学校後半から、女子男子という性差違を周囲が意識し始めているのはなんとなく現象として理解していたが、彼氏彼女といったつながりがこの頃からやけに広がり、女子が男子と同じように接することがおかしいことになっていった。
 いや、そもそも私がおかしかったのはある。私はアセクシャルである。人を好きになったこともなければ、男を異性として意識したことはない(※私は性別的には女だ)。水泳の授業で着替え中の男子の教室に入ってしまい、怒られて理不尽だと泣いたことがあるくらいだ。生物としての差違に興味は無かった。いまは常識として、それがおかしいことだと分かっているし、自分の裸を見られれば恥ずかしいと思う(女だろうが、男だろうが)。それがなんとも奇妙で仕方なかった。教えられていれば、まだマシだったが、小学校はそこら辺の教育がずさん。
 このときの私は、周囲と自分を合わせるので必死だった。教えられてしかるべきである常識を親に教えられていなかった私は、注意深く観察することでしかおかしいと気づけなかったのだ。歯磨きの習慣もなければ、顔を洗う習慣もなかったし、お菓子も遠足に行くときくらいしか買ってもらえなかったので、甘味に対する執着心はひどかった。溜め寝やいざというときのために食べられるときに食べるという習慣が付いていた。怒られるのが嫌だったので、私はおなかが空いたと言うことも親に言えない子どもだったのだ。インターネットも家にはなかったし、そういう当たり前の知識は普通の本には載っていない。
 親は未だに気づいていないのではないだろうか。母親は私を抱っこしたこともめったになかったと言っていたし、あの人は私と同じで周囲に対する興味が希薄なのだから仕方ない。そういう性質なのだ。妹たちは、祖父母に幼少期預けられていたおかげか、そこら辺に対しては問題なさそうで、良かった。

 周囲と会わせようとしながらも、思考はひねくれて曲がって、こんがらがりまくった自己形成をしていた私は、周囲を馬鹿にしていた。……小学校の時とは違って、試験の成績が出るようになったからなのもあるかもしれない。
 勉強は得意だった……いや、宿題は死ぬほどきらいだった。だが、一度教えられれば殆どの内容は理解できたし、人間の複雑さに比べれば、教科書に出てくる内容はそれをなぞれば良いだけだったから、マシだったといえる。
 うるさすぎる男子は虫のように感じていたし、神経質で集団を形成する女子には恐ろしさとともに、表面上で取り繕って仲良しこよしを演じている人たちだと思っていた。
 はっきり言って、性格が悪い。だが、悪口をこの時点ではしっかり理解していなかったので、口にしたことがなかったのが幸い(私は高校に入って悪口を理解し始めた)。……無意識に文句は言っていたかも。

 中学校では友人に誘われて、演劇同好会に暇なときだけ参加することになった。脳疲労がすごくて、眠くて眠くて仕方なかったので、なんなら参加したくなかった。
 しかし、私の社会生活を支えていたのは、この友人だったので、まあ参加したが(今もほぼそうである)。
 一人で遊ぶことを極めていた私は、声真似、朗読、多重人格の演じ分けなど、様々熟していたので、演劇自体は問題は無かった。記憶力も、歌詞を一度歌えば覚えられるくらいには良かった)。
 帰ったら図書館で借りた本を読むノルマがあるので、帰りたくて仕方なかったけど、なんだかんだ演劇は楽しかった。眠かったし、やる気もほぼ無かったけど、良い経験だった。夕方の教室を気配無く歩き回るのも楽しかった。もっと真面目にやれば良かった。賞ももらった。ほとんど他の部員ががんばった結果だが、やりがいはあった。……楽しかったのだと思う。

 性格の悪さで言えば、この時期が頂点。周りを斜め上から見下ろしていたし、何が起こるか分かっていても、わざと言わなかったりした。
 考えてみると、誰も自分を助けてくれない状況が苦しかったのだ。結局すべて自分でなんとかしてきたから、不平不満を言える周囲がうらやましくて、そして不公平だと思っていた。子どもみたいに振る舞えるまわりが、ほんとうにうらやましかったのだと、今なら分かる。
 高校の時、永遠に子どもで居られるなら子どものままでいたいと発言したことがある。責任も何も感じないで、子どものように振る舞いたかったのだ。まわりには変な顔をされたが、あれは本心だった。
 守ってほしかったのかもしれない。責める大人じゃなくて、守ってくれる誰かがほしかったのかもしれない。
 失敗が嫌だった。苦しめられるのが嫌だった。自分の現実を認めるのが嫌だった。
 否定して、否定して、それでやっと生きていた。
 劣等感の塊だった。そして、プライドの塊だった。自分を守るために、他者を認めることが出来なかった。それが私なのだ。
 
 私なりに必死に生きていた中学生時代。でも、やっぱり否定された。
 私のものが無くなり始めたのだ。……家に金はないから、それはかなりの痛手。なんにもしてないのに、どうしてそんなことができるのか、犯人に教えてほしかった。

 私がおかしいから悪いのか? 私が常識外れだから悪いのか。

 孤独はつらくはなかった。人が居る方がつらかった。
 私を見つめられたくなかった。私なんてそこに居ないのに、どうして私を知った気になって、いろいろなことを言われなくてはいけないのか。嫌がらせを受けなくてはいけないのか。

「心配してあげてるのに」「目立ちたがりダヨナ」

 そんな言葉を私にかけたやつの名前は絶対に忘れられない。

 ――私だって、普通の人間になりたかったよ。

 からかってくる男子も、陰口をたたく女子も私にとっては、周りを否定できる普通の人間だった。普通じゃない側からしたら、他人と違うと否定できるお前たちのことがどれだけ許せなかったか。

 でも、そんな発言も理解されることはないとわかっていた。……感情的になりすぎた。

 担任の説教で、その行動は止まったけれど、もしそれが無ければ私の被害はもっとひどかったはず(小学生時代は教科書がなくなり、高校時代は校章が5回以上無くなった。私はなにやらこのような被害を受けやすいらしい)。

 私はそんな状況が続いたことで、疲れ果てた。妹たちも私がおかしいから友達が出来ないのだと訴えてきた。もう、ため息すらでなかった。

 諦観は、挑戦することすら億劫にさせる。ちょうど、ゴールデンウィーク明けの季節ぐらいか。
 私は疲れすぎて、人形のように空を仰ぐだけの生き物になった。宙を見つめている私を私が見つめている状態。客観の極地。

 ひとは息を吸うだけの人形になれることを知った。

  
 今回はこれぐらいで止めておこう。私以外全員敵だと思っていたのが、中学生時代だ。
 大した思い出もないし、明るい話題もあんまりない。小学校時代よりは自分の扱いに慣れて楽になったと思ったら、自分が疲れてたことに気づいたみたいな話。
 父親に、少し怒るくらいで泣くと言われていたので、声を出さずに泣けるようになったのが、このくらいのころ。うん。

 次回も中学生の思い出を書く予定。たぶん、自転車で事故ったときのことが中心になる。

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