自分の人生を振り返る(7) 

 大学1年のころの自分のことを思い出すと、社会に放り出された迷子みたいな感じだ。
 病院にもめったに行ったことはなかったし、買い物も自分でしたことが無かった。自分で物を決めるという機会がほぼ無かった人生だったのだ。毎日親に着る服を用意してもらっていたのは、自分ながら変だと思う。
 で、その第一の難関になったのがスーパーマーケットである。人が怖すぎて、まともに買い物も出来なかった。地元で買いだめして持って行った食料や父が育てたコメを食べて生きていた。
 昼ごはんは菓子パン、夜ご飯は缶詰と味噌汁。後は寝るだけ。外食もめったにしなかったので、一人で行けるわけも無かった。
 寮生活で苦しかったのは、温度調節の出来ないシャワーと水道水だった。水道水はまずすぎて飲めなかったので、ペットボトルの水を地元で箱買いして持ってきてもらっていた。水が減ると飲む物がなくなるので、水さえも我慢していた。自動販売機は贅沢すぎて買うことも出来なかった(正確に言えば買うことは出来たが、もったいなさ過ぎた)。こう考えてみると、本格的な浄水器をつけていた実家は設備だけは無駄に良かった。
 最初の月の食費は5000円いっただろうか。母親が心配して買い物をするようにと言ったので、すこしずつすこしずつ買い物をするようになった。
 超絶偏食なので、自炊が主。同じ階の人と会うのが嫌だったので、人が居ないか確認して自炊室に行って、短時間でできる料理をしていた。それを4年間続けた。それが性に合っていた。

 授業を落とすこともなく、人伝に紹介してもらったアルバイトをはじめたりした(二人だけの受付で、先輩に遅刻されること度々。最長2時間半の遅刻。新人だったので、他のバイト生にLINEで質問して対策。地獄だった)。
 とりあえず社会に出てみて、これまでの自分の常識が覆された。悪いことはしてはいけないと思っていたのに、それが普通の慣習になっていて許せなかった。何度か意見したが、聞き入れられることは無く、気力を落としながら日々を過ごしていた。本の中で見たようなことが繰り広げられている現実はまるで空想のようだった。

 運転免許も取得したが、担当の教師?が何度も交代して(所長だったらしく、忙しいときは他の教師が担当。教習所のほぼ全員と顔見知りになる。教え方が全然違いすぎて、違う運転の仕方をするたびに注意され、正解が分からなくなる)、運転に恐怖を覚える。バカである。
 就職してから運転したが、庭の植木に何度か突っ込みそうになり、運転は自粛した。運転するたびに頭真っ白、フラッシュバック。精神安定剤を飲むと頭がふわふわするので、余計運転が出来ない。

 大学生になり、自分の中の正しさが揺らぐのが分かった。人間に向き合ってこなかった私が悪いのだが、自分の進むべき道が分からなくなった。みんな不真面目すぎて、真面目人たちにしか囲まれてこなかった私には信じられなかった。両親は生きるのが下手なだけで、不真面目なわけでは無かったから。

 で、コロナになった。大学から言われたとおり、部屋から一歩も出ない生活をした。運動をするという習慣も無く、部屋のベッドの上で丸まっていた。この頃からyoutubeを見始めるようになる。SNSもはじめたが、ネット上でも人と会話が成立しなかったので、見る専だった。はじめはフォローすらも出来なかった。コメントも出来なかった。
 なんどか人と話そうとしたが、コメントを返すだけで疲れてしまい続けられなかった。一つのコメントに返信するのに、時間がかかりすぎるのだ。
 現在になって知ったが日本人はほぼ見る専らしい。皆同類だ。

 ――で、そんなとき寮の先輩が自殺した。
 このショックの大きさたるや、今の私には描写も難しい。この先輩は社交的な先輩だったので、自殺なんてする人じゃ無かった。
 ……そして、多分最後に会ったのは私だった。警察には言わなかったけど、自炊室で会ったのだ。
 もうよくわからなくなった。仲が良かった訳じゃ無いけど、いい人だと思っていた。少しだけ世話になったのだ。
 あのひとが死ぬなら、私はどうなんだろう。
 
 生きている意味あるのかなと、久しぶりに思った。疲れた。
 首にタオルを巻いて、先輩の死に方をなぞったりした。
 目の裏が真っ白になる感覚。喉に圧力をかけるだけで、息がまともに吸い込めなくなる。力を緩めると一気に酸素が入ってくる。頭が明瞭になった気分がして、あれは嫌いじゃ無かった。瞑想に近い感じ。でも、苦しかった。
 私は何年かに一度発狂してしまうのだが、このときは発狂ではなく、安定した精神の中で狂ったことをはじめたというべきだ。

 で、就活がはじまる。

 正直に言おう。私は人が怖すぎて、就職活動にエントリーすら出来なかった。人間不信。
 コロナで知り合いに聞くことも出来なかったので、この時点で私の人生は詰んでいた。インターネットの使い方もいまいちよく分かっていなかったのだ(使い方は分かっていたが、検索しようという習慣はなかった)。
 アルバイトは伝手で紹介してもらったので、応募の仕方もよくわかっていなかった。とりあえず応募用紙に記入して、聞かれたことを答えていた。
 本を読んでも分からないものは分からない。人との付き合い方のマニュアル本を見ても、その通りに相手は動いてくれないのだから。
 キャリアセンターにももちろん行った。若者相談センターのようなものにも行った。
 だが、彼らは私がなにを分かっていないのか分かっていなかった。
 動機もだが、そもそも私には欲望がほとんど備わっていないのだから、普通のエントリーシートが書けるわけがない。コロナが開けて友人と話が出来るようになり、キャリアセンターを通して求人に応募する。
 一回正直に話したが、さわりだけで変な目で見られたので、自分の境遇は正直に話さない方が良いのかもと思った。恥ずかしい人生なのだ。

  そもそも彼らが聞いていたのは文面そのものの意味では無かったらしい。
 その企業にとって、自分がどんな利益を与えることが出来るのかを口頭でアピールすれば良かったと。言葉尻の裏を捕らえて、相手の求めるものを的確に返すことが必要だった。
 どんな活動をしていましたかと書き換えてくれれば、いくらでも書くことはあった。寮生活での話、サークル活動などなど。
 しかし、質問の意味が私には理解できなかった。
 自己PRは私の人生で苦手なことの最上位に当たる。自分のことが理解できたら、人生こんなに苦しんでないです。……まあ、これは私の努力不足だ。
 言葉の裏を読む高等技術で試そうとするのではなく、ふつうにそのまま質問してくれれば良い。
 あなたが自分の悪いところをどのように直そうとしてきたのか、どんな人生を歩んできたのか。……重すぎて説明はしなくて良かったと思う。
 ――自分の本性をさらけ出して、人にアピールをするのは本当に難しいことだ。私は性格が悪くてネガティブコミュ障だ。あると言えば、真面目さだけなのだけど、そこら辺も融通が利かなくて困っている。

 で、寮に引きこもり、ボーッと無気力に就活をしていたとき、母親から連絡が来てキレた。ぶち切れて泣き叫んだ。

 親に勧められて心療内科に行くことになった。正確には自分で判断して、母親の知り合いが通っていたという病院に行くことにした。
 先生にはいまもお世話になっている。

 長くなったので、今回はおわり。次回は精神が身体にどんな悪影響を及ぼすか、実体験を書いていく。
 私の恥ずかしい人生も、あとは就職編をのこすのみだ。
 来月が始まる前に書き終えよう。

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