サラダ記念日の汎用性の高さよ

 今日、三年前上京した時からずっとある烏龍茶のパックを使い切った。
 水曜日の夜にウーロン茶を入れる時、「あ、残り一個だな」と思った。今日烏龍茶を飲み切った時も、「いよいよ最後の一つを使う時が来たな」と思った。
 大学に入ったばかりで右も左もわからず、いつまでも部屋のダンボールも片付かず、英語の授業の先生が言っていることもわからず、途方に暮れていた時に、母が「お茶を入れるといい」と荷物に入れてくれた缶かんを開けてみると、何も入っていないと思っていたら、ビニール袋に包まれて、ティーパックがいっぱい入っていた。
 やっと飲み終わった。直接言ってみても良いんだけど、お茶飲み終わるのに3年もかかったのは、お茶を飲まない空白の2年間があったからな訳で、空白の2年のことを思うと、言わないかもしれない。3年かかって、やっとあのお茶飲み終わったよ!というのは面白い話だが、それによって空白の2年を浮き彫りにしてしまうのは意図するところではないからである。
 だからひっそり、烏龍茶記念日。ドンピシャリ、今日。時間差なし。そしてこんな風に、サラダ記念日の出現によって、救われた思いがたくさんあるんだろうなと思った日でもある。


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