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戯言1

自由とは隷従であるという


さてこの度、ジョージ=オーウェルの1984年を読んでみた感想というものをこのノートとやらにつらつら淡々と書いていこうと思う。

と、思ったのだが本当に面倒くさい。こんなもんを書いている暇なんてないんだが。

さっきご飯が炊けて題名もわからない電子音楽が聞こえてきたところだった。題名も分からず歌詞もないくせに私の心をこんなにくすぐる音楽であるのはなあぜなあぜと問いただしたいが、そんな議論をする相手もいないのでまたもや脳内戦争…ハァゲハァゲ!

しかし動くのも面倒である。ああ卒業論文も書かなければ。義務や責任に追われる鬱屈とした人生を送るのはもはや勘弁である。こんなことならいっそ全てかなぐり捨てて無敵の人になってしまいたい。

しかし実際、本当はこんなにも自由な時間というものに恵まれているというのに、自由な時間には何の進歩も為せない自分が嫌いだ。

「自由とは隷従」は順番を変えてみれば「隷従とは自由」である。隷従しているからこそ自由。自由であることとは隷従しているということ。そういうことをこの本では、自由とは隷従であると語っている部分に関してはそう言っていた。なんか自分でもよくわかんなくなってきた。

いきなり話が変わりすぎてしまってすまない。元来こういう人間なので、一度話し始めた話題は収束せずに曖昧に着地する。現実世界での私のバランス感覚のなさは文章にも表れているのだろうか。これだからローラースケートは私の足には不格好で、スケートリンクが似合う男にもなれないのだろう。トリプルアクセルなら3回死んでいる。

まあいい、自由とは隷従であるとは、何か集団に属しているということ、支配されている状態というものこそが自由であるという。その支配、現実は党の精神の中のみに存在しており、党の精神こそが正しいのだと信じることで自由は生まれるのだと。党から見た現実こそが揺るぎない現実であると。何言ってんだ本も俺も。

Wisdomとかいう名前をつけたくせに肝心の知識が追いついていないこの拙い文章はなんと無価値であろうか。

左様なら、さようなら。

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