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孤独なオルフォイス

10代後半~20代前半のころに書いた作品です。

 ブツリ、とやけに生々しく、それでいて乾いた音が耳のすぐ傍で聞こえた。あ、と思う間もなく体がどさりと投げ出される。同時に、倒れた椅子に脚を強く打ちつけた。痛い。咳と共に吐き気が込み上げてきた。這って行く力もなく、その場ですべてを吐き出してしまった。何も食べていなかったからか、胃液しか出ない。物置で見つけた麻紐はどうやら古くなっていたようで、首に食い込んでいた跡を残したまま、途中で切れてぶら下がっていた。
「死ねなかった……」
 口元を袖で乱暴に拭いながら呟いた。体がひどくだるい。
――死ねなかっただと? あえて、それを選択しなかっただけのことではないか――。
 頭の中に、突然声がした。いや、声というよりは音だった。不快で、耳障りで、ぞっとするような。錆びた金属と、大きな羽虫と、沼のヒキガエルとが、ふと走馬灯のように頭の中に連想された。その音が言葉を発しているのだと、辛うじて認識できる音だ。それが何なのかも定かでなく、頭もぼんやりしている中で、自分は無意識のうちに、その音に答えていた。
「そんなことはない。今すぐここから消えたい」
――なるほど――。
 音の主が姿を現した。途端に、むっと、何かが腐ったような臭いが部屋に立ちこめる。どろどろとした、その容貌を何とも形容し難い物体が、うごめきながら、空中に浮かんでいた。気味が悪いとも、恐ろしいともつかない、ただ、ただ、おぞましいとしか言いようの無いかたまりだった。
――捨てるくらいならば、どうだ。取引をしないか――?
 その言葉が発せられた瞬間、不快な音が、一瞬、甘い声に聞こえた。これは悪魔というものなのだろうか。
――我は永久に光より追われし者。反逆と傲慢の原罪の為、永遠に地の果てに縛られし者だ――。
それはそう訂正した。軽く深呼吸をして、改めてじっと相手を観察してみる。これ程に、非現実的で非日常的な状況にもかかわらず、頭は冴え、心は平静だった。
「魂を売れと?」
 そう言うと、途端に、それは穢らわしい声で笑った。
――魂? そんなもの、概念でしかないもの、我が欲するとでも?我が求めるのは、もっとはっきりとした形あるもの。……貴様の存在だ――。
「存在……?」
 訳がわからない。存在なんて、それこそ概念的なものではないか。
――それは貴様ら地上の民にとっては、であろう。我には違う――。
――分かり易く言うならば、そう……時間だ。今まで貴様が生きてきた、そしてこれから生きていくはずの、時間。我々は、そういうものを食っている。その代わりに、取引相手が新しく存在を創るための欠片を与えるのだ――。
そう、そうなのか。だが、しかし。疑問は残った。それでは意味が無いだろう。食べる、といったはずだ、存在を。だと言うのに、また与えたりしたら。
――愚問だな。では貴様は、どのみち空腹が訪れるからと言って、パンを食べるのを止めるのか? 再び訪れる渇きの為に、水を飲まぬのか?我は、エネルギーを消費しているに過ぎない――。
言葉に詰まった。返すのに適当な答えが見つからない。それの言っていることは、一々が尤もに思える。自分は、深く考えるのを放棄し、覚悟を決めると、それに向かって言い放った。
「それなら、どうすればいい?」
――その気になったか――。
――欠片とは、平たく言えば、貴様が全く別の世界で、新しく生きるための、環境だ。ただし、我が与えるのはそれだけだ。その後は、すべて貴様自身で創るのだ――。
 言われたことはとても恐ろしいことに思えた。しかし、はじめから自分は、その存在自体を放棄しようとしていたのだ。今までの、そしてこれからの時間に未練など無い。
「分かった。取引しよう」
 それがニヤリと笑った、気がした。あくまで気がしただけだ。それに顔などもとより無かった。
――好かろう――。
 そこから先は記憶が無い。
 
 小鳥のさえずりと、窓から差してくる朝の日の光が、目を覚まさせた。気が付けば、ベッドの上に横たわっていた。昨日の出来事が夢だったかのようだ。いや、そう、実際に夢だったのだ。ゆっくりと身を起こすと、ベッドから降りた。
「えっ」
普段見慣れたはずの部屋の景色に、全く見覚えが無かった。それどころか、本当に何も覚えがなかった。そもそも自分は、さっきまでどこにいたのか。自分自身のこと、自分の名前さえも。身震いして部屋中を見回した。趣味のいい綺麗な調度品が並んでいる。こんな風だっただろうか、自分の部屋は?
「あっ」
小さな丸テーブルに、カードのようなものが置いてあるのが目に付いた。そこまで歩いて行き、そっと手に取る。黄色い古びた羊皮紙のような手触りのカードだが、硬くてしっかりしていた。渇いた血のような色のインクで書き付けられた数行。
『フローリアン・クラルヴァイン
 16歳
 本日よりノイデンベルク中高等学校に転入。
P・S・ ここはドイツのH……州F……市だ
西暦×年×月×日×曜日』
 これが自分の情報なのだろう。部屋の角にある机の上には、黒い革のカバンが置いてあった。中をあらためると、本やノートが入っていた。引き出しには、革製のペンケースがあり、筆記具もそろっていた。
 教科書を開いてみると、並ぶアルファベット。国語の本……ドイツ語だ。ぼんやりとそれを眺めつつ、読む。前の自分は、どこの国の人間だったのだろうか。ふと、あれの言葉を思い出し、身震いした。
――新しい欠片など前の存在の万分の一にも満たぬことを言っておくぞ――。
 
 ノイデンベルク中高校は、家から徒歩とバスで30分程度の場所にある、共学制の学校だった。その日は、五時限の授業だったのだが、習うことのどれこれも、なぜか初めから頭の中にあった。これも欠片のうちなのだろうか。意欲も湧かないし、集中することもできず、真面目に授業を受ける気にもなれずに、窓の外を眺めていると、自分の胸の中で再び陰鬱とした黒い冷たい霧が渦巻いてゆくのを感じた。希望も喜びも見出せない生活。これでは何のためにやり直そうと思ったのか、わからないではないか。
 やっと授業が終わった。教科書とノートを鞄に仕舞うと、別のものを取り出す。小さなスケッチブックだ。これも部屋で見つけたものだった。鉛筆や色鉛筆、水彩や油彩などの絵の具にカンバスなど、絵を描くための道具が、部屋の中には一式揃っていた。そこで、なぜかは分からないのだが、絵を描いてみようという気になったのだ。描きたい、と思ったのとは違う。そんな気分になっただけだ。それだけでスケッチブックを持って来てしまった。自分は何をしているのだろうと、少し視線を落とす。このまま机の前に留まっていても仕方がない。ともあれ、絵のモデルを探すため、外に出た。
長い廊下は何人もの人が歩いていて騒がしい。甲高い笑い声を上げて、辺りもはばからず話し込んでいる女子の集団を横目に、足を速めた。中庭への出口まで来ると、やっと自分の周りは静かになった。ほっと溜息を吐き、鞄を逆の手に持ち直す。校舎のどこからか、誰かがヴァイオリンを弾いているのが聴こえていた。
 
「フロー」
 呼ばれた名が自分の名の愛称だと思い出すのに、しばらく時間がかかった。
「え?」
 声のした方を振り返ると、女の子が一人いた。いや、一人ではない。少し離れたところでもう二、三人が様子を伺っていた。
「えっと、何か?」
「私、ユリアよ。ドイツ語のクラスで一緒の。覚えてない?」
「ああ」
 確か、隣の席に居た気がする。気にしていなかったので、ほとんど覚えていなかった。
「あなた、絵を描くの?」
「ん、まあ。何となく」
 先ほどから、向こうで控えている彼女の友人たちの、好奇の目が不愉快だった。彼女らがどんな意図があって自分に話しかけてくるのか分からない。面倒なので早く解放して欲しかった。
「素敵ね。何を描くの? 人かしら、それとも風景?」
「別に」
 こちらの突き放すような受け答えに、愛想を尽かしたのか、女の子は肩をちょっとすくめた。
「そっか……。じゃ、頑張ってね」
「……」
 何も言わないでいると、女の子は肩をすくめて友人達と立ち去った。どうでもいいことだ。完全にそれらから背を向けて、モデル探しを再開した。
 
 絵を描くのに飽きて、家に辿り着いたのは六時半くらいだった。ついでに寄ったマーケットで買い物をしていたら、遅くなってしまった。簡単に夕食をこしらえて、15分ほどで食べる。食後のコーヒーを片手に、テレビをつけた。ぼんやりニュースを聞き流しながら、今日のスケッチブックを開いてみた。中庭のリンデンバウムの木だ。木漏れ日と鳥のさえずりに惹かれて描いてみたものの、途中で飽きて止めてしまった。半分が薄っすらとした輪郭だけのリンデンバウム。じっと見つめていると物寂しさを感じた。
 壁際に置かれている柱時計が9時を告げた。シャワーを浴びて、もう寝るとしようか。食器をシンクに下ろし、さっと洗ってしまってから、キッチンの電気を消してそこを後にした。大したことはしていないのにひどく疲れた気がする。
 
 何も変わった気がしない。全く、何も。本当にこれで良かったのだろうか。そもそも、前の自分は、なぜ存在を捨てようとしたのか、覚えていない、思い出せない。自分はまた同じことを繰り返しているだけなのだろうか。
――自殺者は天上へはいけない、聞いたことがあるだろう。これは、存在を捨てようとする者の元に、必ず我が現れるからだ。我は存在を取引に使う機会を与えるだけでなく、捨てる手助けもする。永久に光より追われし者と取引、しかも地上の民に存在をお与えになったのは天上の方なのだ。その方々が、取引や存在そのものを捨てることを好まれるはずが無かろう――?
 それは、魂は概念だと言った。ならば、この新しい存在を生き、もう一度死んだ時、永久に、光より追われた場所へ堕ちるのは何なのだろう。そもそもそこは? 天上と言うのは? 天上の方と言うのは?
――言わずもわかるだろう、地上の民よ。貴様らは貴様らの言葉で、ある呼び方をしているが、中身は同じこと――。
 まわる、まわる。真っ暗で何も見えないけれど、確かに回転を続けている。地面の無い部屋の中。それはこの空間がなのか、それとも自分自身がなのか。ベルの音がする。頭が割れそうに響く。
「ああ」
 再び、朝が来たのだった。
 
 変な夢を見た所為で、その日はずっと不機嫌だった。苛立ちも、もちろんあったのだが、疲れて無気力なような状態がずっと続いた。学校を休んでしまえばよかったと、後悔した。
 この日の授業は、午前中で終了だった。早々にスケッチブックを抱えて外に出た。今日はライラックを描いてみることにした。なぜ木ばかり描くのか、そこに木があるからだ。というより、真っ先に目に付くのが、構内の中では、たまたま木だったからだ。本当に木ばかり描いているわけでもなく、目について美しいと思ったものは何でも描いてみていた。こんな調子で、あてもなく絵を描き続けているだけで、何か意味があるのだろうか。かと言って、他に趣味を見つけるとか、勉強するとか、生憎そんな気にはなれなかった。溜め息を一つつき、ベンチに腰掛けてスケッチにかかる。ページを開き、鉛筆を手に持った。
不意に、何かが腐ったような臭いが漂って来た。あの音がする。
――どうだ、調子は――?
 間違いない。あれが来たのだ。
「何も。何も無い」
――ほう? 中々上質な器を与えてやったつもりだったのだが――。
振り返ると、黒いヤギの姿があった。
――気に入らないというのか? そのブロンドの髪、サファイアの瞳、滑らかな肌、すらりとした体つき。地上の民はそれを美と好むのだろう。それに、どうだ?あらゆる能力にも恵まれているだろう――。
 じっとヤギを見つめた。瞳の奥まで不気味に真っ黒だった。
「確かに……」
 スケッチブックの端を握って、訳も分からずに込み上げて来る感情に耐えながら、答えた。
「容姿の端正なことだとか、豊かな才知だとか、そんなものに憧れていたかも知れない。でも」
――やれやれ、やはり無いものねだりか。地上の民はどこまでも浅はかで、図々しいものだな――。
 ヤギが下卑た表情で嘲笑った。
「別に、そういう意味じゃ」
――哀れなものだ――。
 ヤギが言葉を遮って言った。
――一つヒントを与えてやろう。耳を澄ましてみるがいい――。
そう言い残して、ヤギは消えた。
 
 耳を澄ませ。それが比喩的な意味なのか、あるいは文字通りの忠言なのか、見当もつかなかった。実際に、その通りにしてみても、聞こえてくるのは放課後のざわめきと、外の雑踏や車の音ばかりだ。
  折れたスケッチブックの端を伸ばす。どうして絵を描こうとしているのか、やっと気づいた。初めて、このスケッチブックを見つけたその時に、感じていたのだ。これが自分の存在の鍵になるのではないかと。
「やっぱり、思い込みだったのか」
 何も見つけられないままに、また、ぼんやりとどこからか聞こえてくる、誰かのヴァイオリンの音を聴いていた。
 
 フローリアン・クラルヴァインとして生き始めて、もう四週間も経つ。季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。
 その日は、いつもより早く学校に着いた。構内は未だ、しんと静まり返っている。座り心地のいいベンチを見つけて、スケッチブックを開いた。ムスカリの絵、ヒナギクの絵、小鳥の絵、蓮池の絵、ここから見える万年雪の絵。自分で言うのもなんだが、絵としてはうまく描けている方だと思う。けれど、どれも冷たくて無機質だ。気持ちを入れて描くことが出来なかったからだろう。絵に心が表れているのだ。
 辺りはまだ静かだ。聴こえるのは、ヴァイオリンの音色だけ。いつも一人でいると聞こえてくる音色だった。そういえば、誰が弾いているのだろう。確かあれは、シューマンのトロイメライ。音楽室の方からだ。その音に呼ばれるようにして、音を探しながらそちらへ向かって行くことにした。
 南校舎四階の端にあるのが音楽室だ。音色が自分を導いて来たのは、確かにここだ。半ば夢の中にいるような気持ちで、ドアに手を掛けた。
 
 音楽室に入ると、隅の方に同級生と思しき人が立っていた。ヴァイオリンを構えたまま、少し驚いた顔をしてこちらを見ている。そこで、こちらもはっと我に返った。
「あっ、ごめん。邪魔するつもりは無かったんだけど」
「いや、別に……。ん、君は確か、転入生だった?一ヶ月前だかに」
「うん。フローリアン・クラルヴァインだよ。よろしく」
「……ああ、どうも。カミル・ティーレマン」
そう言いながら、カミルはヴァイオリンを下ろそうとした。
「あ、待って」
「何?」
「ここで聞いてちゃだめかな」
 カミルは肩をすくめた。
「他人には聴かせない主義なんだけどね。ああ、どのみち聞こえてたのか。ま、いいや。そこに座ったら」
「うん」
 カミルは、もう一度ヴァイオリンを構え直すと、続きを弾き始めた。自分は、音楽をのことなどからっきしだったのだが、その旋律に強く惹かれるものを感じた。いや、旋律というよりは、音楽を含めた全体の雰囲気だ。弦を押さえる指使い、弓を引く腕、真っ直ぐに立つ姿。何か、感じる。
 ピタリ、と演奏が止まった。
「今朝はここまで。そろそろ授業の時間だ」
「あのさ」
 夢から覚めて、水を浴びたような気分で、思わず言ってしまった。
「絵のモデルになってくれないかな」
「はあ?何で」
「インスピレーション、かな?」
 カミルが呆れ顔で言った。
「何、それ」
「頼むよ」
 カミルは、ふっと短く溜め息をついた。
「好きにすれば」
「ありがとう」
 初めて、自分から描きたいと思えるモデルに会った。生身の人間を描こうなんて、今まで思いもよらなかった。あれの言っていた、耳を澄ませというのは、もしかしたら……。
 
 その日最後の授業は、化学だった。理科系の教授に、頭髪の寂しい人が多い理由を考察していると、教室のドアからカミルが声をかけてきた。
「フロー、今から音楽室に行くよ」
「ああ、了解。すぐ行く」
「教室の外で待ってるよ」
「うん」
 道具の準備はできていた。教科書とノートと筆箱をカバンに突っ込み、教室を出る。
「あ、そうだ」
 音楽室に向かいながら、カミルが口を開いた。
「絵のモデルになるのに、一つ条件」
「え、何?」
「ちょうど、今、作曲のテーマを探してたんだ」
 何となく先が読めた。それでも、仕方がないので言葉の先を促した。
「それで?」
「で、テーマになってほしいんだ」
「う。な、何で?」
 「インスピレーション?」
 カミルは、事も無さげに言い放った。
 
 カミルが、少しずつヴァイオリンから音を紡いでいく。口ずさみながら、五線紙に音符を書き込む。自分は、そんな姿をじっと観察しながら、写していく。
「初めからヴァイオリンで作るんだね」
「ああ。自分は、こっちのがやり易いんだ」
 カミルも、じっとこちらを観察している。つくづく奇妙な光景だ。なんだか、くすぐったくなる。
「曲のテーマを人間にするのってありなの?」
 顔の輪郭をなぞりながら尋ねる。
「ふふ。分かりやすく『フローのために』ってタイトルにしようか?」
 カミルは、ペン先にインクが詰まった万年筆を温めている。
「ああ……遠慮しとく。あ、ちょっと止まって」
 スッと、鉛筆を滑らせた。
「よし、と。ありがとう」
「うん」
 窓の外には、春の夕日がゆっくりと降りていくのが見えていた。
 
 家に帰ってから、カンバスを包んだ布を開いてみた。今までにない出来だと思えた。これから描き進めるのに、どんどんやる気が湧いてくる。自分の作品ながら、完成が待ち遠しかった。描くことが楽しい。カミルがそれに気づかせてくれたのだ。
「耳を澄ませ、か」
 あれの助言は言葉の意味通りだった。
 
 それから何週間かたった頃だ、音楽室へ行くと、カミルはまたトロイメライを弾いていた。
「あれ、作曲は?」
「ん、ああ。行き詰ってて。そんな時はいつも好きな曲を弾くんだ」
「そっか」
 実は今、自分も行き詰まっていた。教壇に腰かけ、画材を足下に置く。
「いいな。弾きたい曲ってのがあって」
 カミルが訝しげな表情になった。
「自分はそういう時、何を描いても楽しくないし、納得できないことの方が多くって」
 ぽつり、と呟くように言うと、カミルは隣に座りながら言った。
「誰だって、そうじゃないかな。好きな曲だからって、自分の気持ちを言ってくれるわけじゃないもの」
 急に真剣な表情になって、カミルは話し始めた。
「やっぱり、自分の心を表現できるのは、それを一番わかっている自分自身だけなんじゃないのかな。テーマが何であれ、そこに映るのはやっぱり自分なんだ。そもそも芸術ってのは、その自分の心を映そうっていう、それが目的だと思うんだ」
 言い終わって、カミルは笑った。途中から自分でも何を言っているのか、何を言いたいか分からなくなった、と。笑みを浮かべながら、ヴァイオリンを片付けてしまった。何だか空気が切なく感じて、今日はやたら喋るなあ、と茶化そうと思ってやめた。
「言いたいことは分かるよ」
自分も画材を仕舞いながら言う。カミルは、溜め息混じりに言った。
「今日は、話でもしようか」
「うん」
 
 その日の初めの授業はサボった。二人でずっと話していた。カミルが話した思いや悩みに、自分と驚くほど共通点があった。それは向こうも同じようだった。今更、初めて気づいた。自分たちにはどこか、似通ったところがある。休み時間は、一人教室でぼんやりしていることとか、行動の面だけでなく。もっと心の深いところの、価値観だとか、感性だとか。
「そっか」
「うん」
「ずっと、自分だけが苦しいんだと思ってた。とんだ自己憐憫だ」
 そう言うカミルに対して、答えることが出来なかった。
「はははっ。いつだったかな? 何をやっても無意味に感じてね。こんな世界、いらないって思って。実は、死のうとしたことがあるんだ」
 背筋がゾッとした。脳裏に、あれの姿持たぬ姿が浮かんだ。じっとりと汗が浮かんでくる。それから、焦りも湧いて来た。自分の様子がおかしいと、気づかれてはいないだろうか。カミルの様子を伺うと、さっきと同じ体勢のままで床に目線を落としていた。少し青い顔をしている。
「でも、今は見つけた。そりゃあ、今は、行き詰っているけど。やり遂げたいって思えることが、見つかったんだ。何のためにとか、どうしてとか、余計なこと考えないで、ただ今は、この曲を仕上げたい。与えられた人生の中の目標だとか、勝手に自分がこしらえた人生の使命だとか、そういうんじゃなくて、少なくとも今の自分がやり遂げたいことが、この曲を書き上げることなんだ」
 カミルの言葉は、そのまま自分に当てはまった。自分も今はただ、この絵を描き上げたいと思っている。
「だから、その……気づかせてくれて、ありがとう」
「こっちこそ……」
 再び背筋が凍りつくような感覚がした。例の腐ったような臭いがしてくる。まずい、カミルがいる前で、あれが現れたりしたら。
「あ。ち、ちょっと、外の空気吸ってくる」
 この臭いが感じられるのだろうか。カミルが立ち上がった。さっきより顔色が悪かった。音楽室のドアに手をかけ、出て行こうとしている。はっと、何かが自分を急き立てた。駄目だ、このまま別れては!
「カミル!」
 振り返った。
「こっちこそ、ありがとう」
 返って来た、その笑顔を最後に、記憶が闇に落ちて行った。
 
 
 真っ暗だった。とても寒かった。外は相変わらず雨のようだった。
――時間だ――。
「うわああ!」
 体中、汗だくだ。頭が痛い。
――お目覚めかな、萩野忍――。
 ガラガラとした音が、話しかけてくる。はぎの、しのぶ?
「あっ」
 思い出した。自分の名前、自分の家、自分のすべてを。雨の降るあの日、自分はこの物置小屋で死のうとしていた。
――ああ、それも取るに足らない馬鹿げた理由でな――。
 見上げると、すぐ傍にそれは浮かんでいた。それは笑っていた。間違いなく。
――フローリアン・クラルヴァインの存在は、確かに頂いた。萩野忍、それが今のお前の名前、存在だ――。
「えっ」
――意味を見つけたなら、それを持って行け。せいぜい、失くさないような――。
 それは、少しずつ霞み、姿を消そうとしていた。訳が分からない。混乱が頭の中を支配してしまっていた。ぶつけたい質問はたくさんあった。どうして、なぜ、一体? でも、言えたのはたった一言だった。
「お前の、お前の名前は?」
 それは、ただ笑った。
――教えてどうする。余計なことは、すべて忘れてしまうがいい――。
そして、一瞬で姿を消した。
 
 
 あれは何年前のことだったか、記憶が定かではない。現実であったのかどうかも。
 今、地方の美術館で小さな絵の個展を開いている。メインは今回描き上がった『孤独なオルフォイス』。西洋菩提樹の下に、ギリシャ神話のオルフェウスをイメージした少年が立っている。ドイツ語で言うところの“オルフォイス”だ。
 口元に優しい笑みを浮かべ、瞳はどこか寂しげに、哀しげに伏せられている。白く細い指は、竪琴の弦を掻き鳴らしながら、よく見れば僅かに血が滲んでいる。その肩には小鳥がとまり、足元には小さな花が咲いている。背景には、美しい万年雪の山と青い空、風が吹いてライラックの花びらが飛んできている。美しい風景に囲まれていながらも、彼の孤独は癒されない。
自分の描いたオルフォイスは、初めから一人だった。ただ、エウリュディケに出会う時を探し求め、待ち続けて、孤独の苦しみや心の凍えるような寒さに耐えているのだ。そして、彼は彼の愛する竪琴を奏で続けている。その美しくも悲しい旋律に自分の想いを乗せて。オルフォイスの絵姿のモデルは、他に誰も知らない。誰も、知るよしもないだろう。
 
 展覧会の一日目。少しだけ、顔を覗かせた。まだ大して名の売れた画家でもないというのに、県外からわざわざやってきた学生や、遠方から来た芸術家に、握手をせがまれたりした。オルフォイスの評判は上々だった。モデルについて何度も聞かれたが、何とも答える事は出来なかった。これはある意味、過去の自画像であり、そしてある意味もう一人の自分の肖像なのだ。この絵だけは、どうしても思い入れが強かったために、解説プレートを付けないでもらった。
 忙しい日中を過ごしてから、夕方前にはやっと一息つけた。心地の良い疲労感だった。簡単に身なりを整え、お気に入りのカフェに入る。いつものブレンドコーヒーと日替わりのお薦めケーキを頼み、テーブルについてゆったりしていると、休日恒例の、小さな演奏会の準備が始まった。これが、ここに足しげく通う理由の一つだった。絵を描くために、音楽は時として、大きなインスピレーションをもたらしてくれる。
 今日は、ヴァイオリンの演奏のようだった。そういえば、入り口にポスターがあった。ヴァリオリニストの早瀬薫。
 名前には聞き覚えがある。最近、売れ始めた音楽家だったと思う。今日の演奏では、新曲を発表するらしかった。タイトルは『Für Flo』。フロー、というのは人の名前だろうか。『フローのために』。シンプルだが、好みのタイトルだった。ウェイトレスが客に水をサーブして、ウェイターたちが演奏場所の確保をした。客たちもきちんと着席して待っている。自分はもう一口、コーヒーを口に運んだ。そうしているうちに、演奏が始まった。
 コーヒーカップを傾けながら、いつの間にか、いつもよりもじっと、その音楽に聴き入っていた。美しく、柔らかで温かく、それでいて切なく寂しい、物悲しい旋律。はじめて聴く気がしなかった。目を閉じる。そう、ずっと昔、どこかで聞いていた気がする。心を直接揺さぶられるような、このメロディー。冷え込む朝、日が昇るころの静かな空間。ひっそりと、他に誰もいない音楽室で、グランドピアノを背景にして。そこに立っているのは。
「あっ」
 手が震えて、持っていられずに、カップを下ろした。手だけではない、体中が震えている気がする。呼吸も浅く乱れている。
 
 演奏を終えたヴァイオリニストが、にっこりと笑って周りに挨拶し、お辞儀する。そして、楽譜の束とヴァイオリンを手に、真っ直ぐこちらに歩いてきた。髪の色も瞳の色も違うけれど、その仕草、表情、何を見ても間違いようがなかった。その人は、目の前までやってきて、あの日と変わらない笑顔で、たった一言告げた。
「お互い、見つけられたみたいだね」
 一つの魂で二つの人生を生きた人間が、世界にどれだけいるかは知れない。ただ、目の前にいるその人と自分は間違いなく、二つの人生を生きた。そこで見つけた、かけがえのない、大切なものの最後のひとかけらが、ぴたりと合って、今、完成された。頭の中に微かに響いていた、オルフォイスの竪琴の音色が、温かく幸福に満ちたものになった。
 ここにこうして在り続ける意味。これさえあれば、自分はもう、それを止めようとしたりなどしないだろう。幸せなオルフォイスの奏でる音楽とともに。
 

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