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#2 LIVE STAGE「ぼっち・ざ・ろっく!」が素晴らしかった話

前回の#1 能 -ここにアニメがあった-に続いて今回は2.5次元舞台を題材に体験を綴る。
今回はライブステージ「ぼっち・ざ・ろっく!」を見た人間の感想文である。

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舞台とは、時間方向に展開される不確実性のあるリアリスティックな表現技法である。

映像作品とは、特定の時間を切り出して空間表現を拡張する。
アニメーションは更にそれを表現として刻み、必要なものだけを映し出す。
アニメを舞台に落とし込むということは、アニメで表現されないもの、つまり簡略し誇張された最小限の描写の外にあるものをどこまで舞台として盛り込んでいくか、が重要になると私は考える。
特にこのぼっち・ざ・ろっく!は日常系アニメに近い雰囲気でありながら、表現の幅は広く映像表現として使える技法はとにかく盛り込んでいく作品である。特に後藤ひとりは人の形を逸脱しデフォルメされたり、しまいには実写やクレイアニメの形を得たりと様々な方法で表現される。

そんな非現実的な存在である後藤ひとりと、ライブハウスという現実を結束バンドが仲介する。
アニメーションだからこそ成立していた現実を超えた表現技法を舞台においた時にこの作品がどのように描かれるのか、というのがこの舞台における事前の期待だった。
そして開催された舞台は、我々の想像を超えるものだった。


1.舞台セット

この作品は大きく「STARRY」「下北沢」「ぼっちハウス」という3つの場所で展開される(厳密には +学校)。
舞台は観客をその場所に誘う。そのために、そこで会話が行われている場所が明確に認識できなければならない。
この舞台で秀逸と感じたのはその背景のあり方だ。
ぼっちちゃんの押入れから始まるこの舞台だが、前半は押入れ→学校→公演→下北沢→STARRYまでを一本の流れで繋ぐ。
この間、ほぼ暗転がない。
移動があっても暗転による転換を使わず、シームレスに舞台が展開していく魅せ方により、観客の注意は舞台から離れない。
特に上空間の使い方が素晴らしく、移動式階段を用いた視線誘導や心理表現は目を見張るものがあった。
背景の大道具たちが移動しているところを見せることで、アニメでは省略されがちなカット間の様子を見せることができる。
観客たちはただ用意された背景を見るのではなく、背景がどう変化するかに着目し頭の中にある「アニメで見た風景」と眼の前の「舞台」を自発的に紐付けることになる。
転換の暗闇に掻き立てられる想像力もあるが、2.5次元のように次にどの場面が来るか既知の場合はこのように転換の過程を見せることでアニメを補完する形で観客に行間を読ませることができる。これは2.5次元ならではの効果だろう。
特にぼっちちゃんと虹花ちゃんがSTARRYに入る際に、階段ごと移動して下に降りる演出は舌を巻いた方も多いだろう。
演者が舞台に登り上方向に意識が向いている間に下側の状況を整理する方法によって、舞台が連続していく。
配信で見るとその巧みさが更に際立っているように見えた。
実際に階段の上は感情の興隆を表す場面、階段中での演技は揺れ動く心を示すことが多かった。
舞台の広さがあるからこそできる演出ではあるのだが、階段による舞台空間の拡張はぜひ一度目にしてみてほしい。
また下北沢を彩る細かい装飾もそれ自身に特殊な意味があるわけではないのだが、それをぼっちーず*1がワチャワチャと動かす。
(*1 ぼっちちゃんのイマジナリーフレンドが受肉したもの)
大きな背景が切り替わるものが多い舞台で、小物によって彩られる世界がリアルタイムに切り替えていく方式は新鮮だった。
アー写を撮るシーンなどはその背景のギミックを使って、空間の実在性を改めて高めてくれる。
セットの充実感と転換だけで20000字くらい書けてしまいそうだが、これは見てもらうほうが絶対によい。できれば配信ではない実際の舞台を見るべきである。早く再演してくれ。


2.ライブ

ライブステージとして銘打たれた作品なだけあり、ライブシーンにはかなり力が入っている。

バトルモノの舞台ではやはり殺陣、ミュージカルであれば歌唱シーン、と見どころが必ず用意されるが、この作品はもちろんライブだ。
演者がその演技の中で楽器を演奏・歌唱し、ライブハウスらしい特有のサウンドで全身を響かせてくれる。
物語という構造上、盛り上がるシーンをラストに持ってくるのは必然なのだが、こういった日常系に近い作品では盛り上がりを用意することは難しい。
この作品は必ず盛り上がるライブシーンを配置することで間違いない面白さを提供してくれる。
この安心感はやはり体験してもらいたい。
ラストに向かうにつれて、ギター上手人(うまんちゅ)である後藤ひとりのパフォーマンスが向上していく様子はもちろん、ドラム虹花やベース山田の演奏しながら出てくる笑顔と余裕に、精神が浄化された人たちは多いだろう。
ラストのライブシーンは俺たちがアニメで出会えなかった伝説の三曲目を演奏してくれる。
「結束バンド」が全員「結束バンド」であるシーンは他の結束バンドのライブでは存在し得ない。
声優歌唱でライブを行う他のコンテンツでもよくある話かとは思うが、声優にそのキャラクター本人を投影し、さらに観客がその世界に入り込むまでの没入感は並大抵のライブでは成し得ない。
専用のキャストを用意するライブコンテンツですら、完全な同一視は難しいものがある。
しかし、この舞台にはそれがある。
キャストではなく、キャラクター自身が己が演奏と己が声で楽曲を奏でてくれると思わせることに成功しているのだ。
これは後述する役者の素晴らしさが十二分に発揮できているポイントであり、演劇的シーンとライブシーンがシームレスに繋がることによるキャラクターとキャストの融合が圧倒的高次元でなされる事により見える景色であった。
また、ライブパートでは我々観客も「劇を見ている観客」ではなく「ライブを見ている観客」に役割が移る。
観客はその瞬間、登場人物を傍から覗く存在からライブに参加し手拍子や声援を送るファンとして劇の当事者になる。
世の中には観客を役職名で呼ぶコンテンツはたくさんあり、それによって生まれる没入感はあるだろう。
しかし、「観客」というロールほどやりやすいものはないだろう。
事実我々は観客席で観客のように座っている。その状態すら劇に取り込むことで会場そのものを舞台に仕立て上げてしまう。
虚構に飲み込まれた者がどうやって現実と虚構を区別できるだろうか。いや、できない。
後藤ひとりは、ギターヒーローはあの瞬間、俺たちの目の前に存在した。

3.キャスト


この舞台において、語るべきランキングトップはキャストだろう。
ぼっち・ざ・ろっく!の根幹を成す主人公後藤ひとりを演じる守野まも、彼女は親の影響でギターを始め、学生時代にバンドを組んでいた、という情報以外素性が明らかにされていない。
Twitter(X)でも異彩を放つツイート(ポスト)を繰り返し、もはや実在を疑うレベルの存在である。
彼女の演技は、まさに後藤ひとりそのものであった。
カーテンコールで喋る彼女は、もはやどこからが素なのかわからないレベルで、完全な融合を果たしていた。
後藤ひとりのような経歴と後藤ひとりのようなオーラ、果たしてこの逸材をどうやってオーディションしたのか……山崎さん教えて蔵杯……。
山田役の小山内花凜もひと目見た瞬間に「本物がいる」と思えるほどのハマり役。
本当に草を食べながら話すなんてことがあるのか、舞台ならではの面白さを十分に体験させてくれるいい役割だった。
ベースを持った姿は自称股下500mに恥じないカッコ良さで話し方も相まってファンになった方も多いだろう。フェンダーの白カッコいいよマジ。
そんな二人を繋ぐ伊地知虹花役大竹美希は普段よりも声のトーンを上げていたとのことだが、正にホンモノの声をしていた。
回しの役どころでかなりパワーのいる役だが、虹花がその場にいると常に思わせる素晴らしい雰囲気だった。
キタちゃんは陽キャ。

そして、そのドンピシャなキャストたちによって、アニメで見たあのシーンやこのシーンが再現される。
2.5次元舞台において、アニメがどのように舞台で再現されるかは期待される部分だ。
別エピソードの挿入や舞台特有の新展開によって発生する加点もあるが、基本的に原作の再現度がそのまま2.5次元の満足度に反映される。
単に原作の再現が嬉しいという効果もあるが、原作再現には別の効果もある。想像力による補完が容易になるという点だ。
アニメの場面を再現することでアニメ視聴の記憶から補完して想像できる。これこそが2.5次元舞台の強みだろう。
ただでさえキャラクターそのものなキャストたちで場面を再現されたらその効果はなおさらだ。
この舞台ではその強みを武器にしてアニメの特徴的なシーンを徹底的に再現し、観客の頭の中にあるアニメキャラクターと舞台上の存在を同一化させることに成功している。

4.カーテンコール


と、ここまでこの舞台の表層的素晴らしさについて語ってきたが、ここからが語りたかった内容である。
先にも述べたが、舞台とは虚構が現実に寄りかかる形で表現される芸術である。
現実の人間が実時間軸で虚構を演じる。
それによって第四の壁を超える演出であったり、観客を舞台に上げたりと様々に現実に対するアプローチで楽しませてくれる演劇も多い。
このぼっち・ざ・ろっく!の主演である「まも大先生」は、アニメーション的虚構と現実の壁を破壊した「破壊者」である。
2.5次元の舞台に上がるキャストはアニメーションから抽出されたキャラクターのコアをインストールして、その演技に挑む。
歯に絹を着せずに言えば、我々はそのキャラクターの特徴を捉えた表現を見て、演者とキャラクターを同一視し没入感を高めていく。
舞台が終わればカーテンコール、そのキャスト自身の声で我々に声が届けられるのが通例だ。
しかし、今回の舞台は違う。
ホンモノである守野まも、いや後藤ひとりがそこにいた。
我々はアンコール、カーテンコールを見ているはず。しかし、現実であるはずのキャストが出てこない。
何度出てきてもそこには「後藤ひとり」がいる。
果たしてそれが本人の素なのか、演技なのか、それは我々にはわからない。
アニメーションという虚構から生まれたような存在が、舞台という現実的芸術から虚構側に我々を引き込みにくるのだ。
Twitterを見ても、他の演者の話を聞いても、彼女の実在性は疑問符がついてしまうほど虚構的である。
他の演者も舞台上でのあり方は充分に虚構的で、作品のファンである我々を間違いなく楽しませてくれた。
山田の本質的な魅力やきくり師匠のベースの巧さ、喜多ちゃんの陽キャオーラ、虹花ちゃんの笑顔、星歌さんのぼっちちゃんへの熱い視線、「PAさん」、全てが虚構でありながら実在している。
しかし、後藤ひとりは違う。
アニメーション内でも、他の登場人物からも「人間ではない」と言われ、舞台に登場しても虚構と現実の狭間を揺蕩う彼女は、こちらを引き込みに来る。
ぼっちちゃんの圧倒的な虚構性により、舞台の非現実感は加速していたはずが、守野まもという存在により、架空の世界が現実世界に漸近してくる。
虚構世界と現実の境界を濁らせ、舞台終演後も観客の意識を完全に切り替えさせない強引な魅力はこの舞台だからこそ見せられるものだった。


まとめ

以上のように舞台セット、ライブ、キャスト、カーテンコールとこの舞台の特徴を挙げて紹介した。
この特徴を一般化して、2.5次元舞台において原作世界に没入させるための条件を浮き彫りにしてみたい。

再現こそ正義

今回の舞台を通じて、2.5次元において原作を再現することの重要性が想像以上に高いことを強くと感じた。
先述した通り、原作の記憶と舞台を紐付けるシーンがあることで、キャラクターと演者の同一化を促すことができる。
結局のところ、そういった再現シーンが頭で紐づかなければ、2.5次元のアドバンテージを活かせずに劇に没入できず終わってしまう。
とはいえ、原作の再現と一言で言っても、単にシーンを演じるだけでない複合的な要素が絡み合う。
例えばアニメにはキャラクター、動き、背景、声、セリフなど様々な要素があり、どれか1つを取って同じものを舞台に作り上げたとしても再現とは言えない。
他の舞台を思い浮かべてみると、キャラクターやその声の再現を実現できている2.5次元は多いように感じる。
キャストや衣装、ウィッグなどで忠実にキャラクターを再現するものはよく見かける。
声に関してはアニメと同じキャストを使う事例も多い。
今回の舞台は元の声優を使っていないものの、セリフでの違和感は全く無くキャラクター自体がそこに自立しているような演出となっている。
さらに、キャストが実際に楽器を弾くというパフォーマンスも説得力のある再現方法だっただろう。
重要なことはアニメにおけるキャラクター以外の要素の再現度だ。
この舞台で印象的だったのは、アニメで強烈に記憶に残っているワンシーンを小道具や照明、特殊効果を使って再現する部分だろう。
どんなにキャストの再現率が高くとも、溶けたりバグったり、ましてや”つちのこ”になったりすることはできない。
キャストの再現だけでなく、舞台だからこそできる効果・演出を用いて再現することでやっと観客はアニメと舞台を紐づけることができるのだ。
背景に関しても先述したような独特の手法での再現が試みられており、そのおかげでよりアニメ世界への没入感を生むことが出来ている。
特にアニメオタクくんたちは背景の細かい部分やキャラの位置などの情報から様々な考察をして喜んでたりするので、なおさら背景は記憶に残っていることだろう。
舞台セットの章で述べた通り、この舞台では「STARRY」「下北沢」「ぼっちハウス」といった原作の印象的な場所を舞台の上に作り上げていた。
これほどに充実した大道具を用意できる2.5次元舞台は記憶にはなく、他作品ではスクリーンに映像を直接投影して背景としているものも多い。
しかし、「実物の立体」と「投影された平面」とでは臨場感が全く違う。
他の2.5次元舞台では予算の問題であまり大道具に力を入れられないのかもしれないが、舞台で一番大きな「顔」である背景で魅せることは観客を楽しませる上で欠かせないだろう。

虚構と現実の境界線を越える

この舞台を見え終えた時に感じた虚構が侵食した感覚を「没入感」と表すのは不正確かもしれない。
あの瞬間、我々からぼっち・ざ・ろっく!の世界に入り浸っていたのではなく、間違いなく舞台から客席にぼっち・ざ・ろっく!が飛び出していた。
この感覚にはいくつか要因がある。
一つ目は観客とのやりとりだ。いわゆる第四の壁だとかメタ発言という類のもので、この舞台でも何度か存在する。
これによって観客は、目の前の出来事をただ鑑賞する対象ではなく、そこに生きている人間の出来事として理解する。
単純に客席に語り掛けるだけでなく、観客に対してコール&レスポンスを誘ったり、観客の持っているグッズに反応したりとインタラクティブなものも起きていた。
ライブパートの章で述べた「ライブ会場の観客」としての手拍子や声援といった自発的なもののこれに含まれる。
巧みな演出によって画面から飛び出してくるようなアニメはあっても、物理的に境界線越えられるアニメはない。まさに舞台の強みだろう。
この舞台に限らず、演劇を配信などの映像で見る時に物足りない気持ちが少なからずあるのは、やはりこの境界線というものが画面になってしまうからではないだろうか。
どれだけ劇に没入しても、声や拍手が届かないことを鑑賞者は意識してしまいどうしても間に壁ができてしまう。
目の前に実在するというだけで、あらゆる出来事は他人事ではなくなるのだ。
境界線は舞台と観客席以外にも存在する。
開演と終演だ。
一部の劇団(主にアングラな感じの劇団)では、開演前の時間にも関わらず舞台や客席に役者が現れてる演出を使う。
また、終演に関して明確な区切りを作らずにいつの間にか劇が終わるといった演出も多い。
これらの演出は虚構と現実の境界線を曖昧にする効果があり、観客はどこからどこまでが劇なのかわからなくなってしまう。
今回のカーテンコールについてもこの仕掛けが効いていたように思える。
本来、幕を閉じ虚構が解かれるはずのカーテンコールでも、役者は役から抜けたのかどうかが判別できず、依然として虚構が続いているような感覚に陥った。
一般的な舞台にはあるはずの「物語の終わり」という境界線を曖昧になることで、物語の中の存在であるキャラクターたちが目の前の現実に現れたような錯覚を覚えたのだ。
2.5次元舞台の観客が求めているものは人それぞれだとは思うが、原作の世界を現実のように感じられる体験は舞台ならではだろう。

境界線を越えるための大前提

この舞台のよくできているところは、前半で先述したとおりアニメの再現を徹底的に行い、ぼっち・ざ・ろっく!の世界へ観客を没入させた上で境界線を越えてくる点だ。
キャストをキャラクターと錯覚するほどに没入できていない状態では、いくら手拍子を送ってもこちらに話しかけてきても結局それはキャストが境界線を越えただけに過ぎない。
その段階において、メタ発言やインタラクティブな演出が入ると、舞台世界に対して観客もメタ的な視点で舞台を見ることになる。
この舞台では前半に少しメタ的な視点(ぼっちちゃん)からの語りかけはあるものの、1つ目で挙げた「再現こそ正義」にある通り原作再現を忠実に行い観客を没入させた上で徐々にライブパートの割合を増やしていく。
これによっておのずと演劇から音楽ライブという性質の違う形式に舞台が変化し、最終的に先述のカーテンコールに至る。
ぼっち・ざ・ろっく!の元のストーリーが後半にライブシーンが多いということもあるため、他の2.5次元でも同じことを行うとなると難しいかもしれない。
この舞台は上記の絶妙な演出に成功していたが、全ての2.5次元に同じものを求めているというわけではない。
しかし、1つ目の「再現こそ正義」はどんな2.5次元舞台でも工夫すればできるのではないかと思う。
というわけで、この舞台の鑑賞経験を踏まえてどうすれば面白くて再現率の高い2.5次元舞台が生まれるのかルールを考えてみた。
名付けて「2.5次元舞台の三戒」
2.5次元舞台の三戒
その1. 背景が灰色の地味な階段だけであってはならない
その2. スクリーンへの投影で背景を作った気になってはならない
その3. キャストを声優にして再現した気になってはならない
この3つは今回の舞台の原作再現において良かった点を反転させたものである。
振り返ってみると今まで見た2.5次元舞台で上記3つをクリアしたと感じる作品はどれも素晴らしかった。
逆にイマイチだった舞台を思い出すと、この三戒を破っているものが多いのではないだろうか。何とは言わんが。
この記事に奇跡的にたどり着いた演出家の方は肝に銘ずるように。


ところで、灰色といえば灰村諸葉をご存知だろうか。
彼が出演する聖剣使いの禁呪詠唱<<ワールドブレイク>>というアニメでも「ぼっち・ざ・ろっく!」との共通点が多々見られるような気がしたが、そんなことはなかった。
しかしながら、ワルブレはアニメとなる際に当時氾濫したラノベアニメ化作品の中でも一際独自の輝きを持った作品であった。
ぼっち・ざ・ろっく!もアニメ化発表時点ではきらら枠の一つであり、注目作ではあったものの今のような盛り上がりになるとは誰も思わなかったであろう。
ギャグを殺さず、泣けるシーンは真剣に。
あらゆる表現の可能性に挑戦し、それによって世界を広げる両者のあり方は時代さえ違えど、見ている方向は同じだと感じる。
世界は常に前進している。
そんな流動する世界の中で、自身の軸を定め、その潮流と相対していかなければならないのだ。
新たな2.5次元の名作と出会える日を願って。

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