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バリバリの●●です。その2

前回までのあらすじ

 新聞広告で「鬱」という病気がこの世界にあると知った、まだぴちぴちに幼い頃の西野。
 まさか数十年後に自分がそれにかかるとは思いもせず、ちょっと中学をさぼってみたり、かと思えば高校では「帰宅部である」という理由だけで、学校の評判を上げるための操り人形になったりしつつ、なんとか第一志望校への合格を決めた。

 そこまではよかった。

 もっと言えば、そこから少しいったところまでは、よかった。


受験戦争を制す

 もともと特に学びたいことはなく、単純に私の住んでいた場所は結構な田舎だったから、進学に乗じて都会に住むことができる……ということが、受験に向けた大きなモチベーションだった。緑あふれる森なんか、とっくの昔に見飽きていた。マッチ一本で火をつければ簡単に燃えてしまうような木々よりも、陽の光をまぶしく跳ね返すビルの窓ガラスのほうが、私の目にはよっぽど綺麗に映っていたのだ。

 もしも第一志望校に落ちたら、いま住んでいる街に毛の生えた程度の規模しかない、近隣の市にある公立大学に通うことが半ば決まっていた。だから私は本当に、大学受験にすべてを懸けていた。別に勉強がしたくて進学するわけじゃないから、当然とも言える。
 その頃ともなれば、かつてはひたすらに死にたがり、リスカに手を出したり、紙という紙をビリビリに破いて部屋をとんでもない有様にした時代はどこへやら。寝食を忘れることこそなかったものの、それまでとは見違えるほど勉強に勤しんだ(のは高3の冬休みからセンター試験の前日まで)。

 結果的に、いろいろなラッキーが重なって、私は第一志望の大学に合格を決めることができた。滑り止めの私立大学を受けるため、一人ぼっちで都会に来ていた先で合格発表を見た。すぐ親に電話をかけると、電話の向こうの声が聞いたこともないほどに弾んでいて(はじめて親孝行ができた……)と思った。

 思い返してみれば、私がそう思ったことはこの時がほぼ最初で最後になるわけで、というか書くために考えたらいろいろと嫌になってくるね、これ。もう書くのやめよっかな(本末転倒)


エデンの園での4年間

 今でもはっきりと思い出せるほど、私が過ごした大学生活の4年間は充実していたし、毎日がとても楽しかった。休まず授業に出ていたかどうかはさておき、あれほど輝いていた日々は高校までの間にはなかったし、大学を卒業した後も今に至るまで存在しない。悲しいかな、明らかに私の人生のピークだった。

 特に将来やりたいことがあるわけでもなく、学びたいことがあるわけでもなかったが、社会秩序を維持するためのきまりを知っておこうと思って、法律の学科に進んだ。自分のゼミ教官の授業より、個人的に楽しく受けていた労働法の成績の方が高かったのは申し訳なかったなあと思ったりする。しかも私はゼミ長だったのにこの体たらく。にもかかわらず卒論には「秀」をくれた。先生に感謝。

 いちおう人並みに恋もした。高校までろくな恋愛や人づきあいをしてこなかった自分にはもったいないなーと思うほど素敵な人だった。
 けど、一度サークルの中でゴタゴタが起きてからというもの、かつての私の恋人は、他人を疑う卑屈な性格に変わってしまった。私がもっと強ければ、身を挺して護ることができたのなら、あの人があんなふうにならずに済んだのかもしれない。
 それは今でも心残りだ。

 なんだかんだ、やりたい放題やった四年間だった。
 就職活動も他の人に比べればかなり適当だったと思うけど、なんとか空前の就職氷河期の中でも内定をつかむことができた。もともと偏差値の割には就職率がいい大学だったのも功を奏したと思う。

 あとは普通に会社勤めをしながら、変わらない毎日を消化していく日々なのだろう。

 そう思っていたのに。


変わらない日々に泣く

 私が新卒で入社した会社は、その業種の中でもわりと規模の大きい、歴史の長い会社だった。

 あまり具体的な仕事を書くと特定されかねない業種なので詳細は割愛するが、その会社の中において、私のような大卒総合職の一般社員は社内カーストの最底辺に位置していた。なんなら一般職やパート社員にすら劣る。何が劣るって、勤務時間管理から何から何に至るまで、すべてだ。ろくな研修もなく何でもやらされたし、どこにでも行かされた。ヤクザで言えば鉄砲玉のようなものだ。

 他の職種よりも先を行っていたのは、役職の上がるスピードと難易度(大卒総合職は年功序列かつ無試験で勝手に出世する)、それでいて基本給は他のどの職種よりも高かった。だから私のような総合職を目の敵にする社員も多くて、こっちは生きるために仕方なく仕事してるだけなのに……と複雑な思いを抱きながら仕事に励んだ。別に幹部になりたくてこの会社来たわけじゃないし……と。

 なんなら入社前からゴタゴタが多すぎて、大学の卒業式の頃には既に転職サイトへ登録していた。付き合いは長くないだろう、と思いつつも生きるためにはしがみつくしかない日々だった。


足音

 社会人になってまもなく一年が経とうかという頃、ふと「あ、死にたい」と思うことが増えた。中学の頃、毎日死んだように生きていた記憶がよみがえってくる。あの頃と違うのは、今の私は自分の生活を自分の手で守らなければならないということ。いくら死にたかろうが、仕事に行かないことには食べていけない。当時は実家で祖父と祖母の面倒を一人でみていた母親に頼ることはできなかった。

 それでもお構いなしに忍び寄る、全然取れやしない暗く黒いやつ。SNSを開けば、仕事も休日も充実した生活を送る同級生たち。電話を取った九割九分がクレームで、気がつけば休みの日も仕事をせざるを得なくなっている自分。誰でもミスなんかするし、一年目の新入社員なんてそれが許される頃だったのになあと今は思うのだが、当時はもう全然ダメだった。自分がとてつもなく無価値に思えてならなかったのだ。

 そんなある日、私は大学の一つ下の後輩に連れられ、飲みに出かけた。今日暇ですか……と連絡が来て、私が懊悩していることを明かすと「奢るから飲みましょう」と連れ出されたのである。

 親の仇みたいに肉をじゃんじゃか七輪の上で焼きながら、後輩が言う。

 実は自分、鬱になってたんですよ。


 私が大学を卒業した翌年、順当に行けばその後輩も卒業するはずだったのだけど、バイトで中途半端に役職がついてしまった結果、通学が疎かになって留年した挙句、クレーム対応や休日出勤を繰り返しているうち、たちまち鬱にかかってしまったのだという。

 そんな後輩に、私は休職に至るまでの経緯を(所々を端折りながら)話して聞かせた。

 鬱。
 赤い明朝体。バリバリの。木の実ナナ。
 それらが次々と、脂くさい煙の向こうに見えた心地がした。

 はーん、と後輩はひとつ唸ってみせたあと、ジョッキの中身をカラッポにしつつ言った。

 そんなちんけなことで西野さんみたいな人が死ぬの、もったいないですよ。
 薬だろうがなんだろうが、生きるために使えるならなんでも使いましょう。自分の通ってた病院の先生、いい人ですよ。
 だからまず飲めやオラ


 翌日。

 私は二日酔いに頭を抱えながら、後輩が紹介してくれた先生のいる大学病院に予約の電話を入れた。


【まだつづくよ】

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