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バリバリの●●です。

はじめに

このエッセイはもしかしたら、そのうち我に返ったとき「だめ!!!若気の至り!!!」と生娘のように頬を赤らめながら非公開にするかもしれませんが、その時は何卒ご容赦ください。

 私は芸能人でもなければ総理大臣でもないわけで、ちゃんと自分がどこの馬の骨かということを説明しておかなければ話にならない。そうでなければ(ニシノナツハ? 新人の風俗嬢の源氏名?)と思われてもおかしくはない。
 なので、来週には「牛乳プリン」とか「ぁんだーらぃん」とか「外患誘致」とかにペンネームを変えているかもしれない。ますますわけがわからないよ西野。終わらせたいのかこのnoteを

 まあ、現時点で私が何者かわからない人は、このnoteの最初の記事をお読みいただきたい。ついでに小説も読んでくださるとありがたい。そのうえでこの記事を読むか読まないか、あとはよしなにしてくれて構わない。

 一応、私がnoteでエッセイを書くときの大きなテーマは「この程度で死ぬとか筆折るとかはアホらしいぞ。こんな私も生きてるし」ということを伝えていきたいので、ひとつよろしくお願いしたい。




「鬱」とのファーストコンタクト

 私は子供の頃から、漫画よりも新聞を読むのが好きな子供だった。母親のつくった朝食を胃に収めながら、社会面を眺めるヘンな子供。株価の読み方は昔も今もわからないし、スポーツはそもそも嫌いなので、そのふたつの紙面だけは飛ばした。ただし、それ以外の大半の記事には目を通していた。

 やがて、小学校高学年くらいの頃。私はある日の新聞の全面広告に、大きくこんな文字が躍っているのを目にした。

私は、バリバリの「鬱」です。

塩野義製薬の広告だったらしい。


 赤い明朝体で書かれたその言葉の後ろでは、木の実ナナが微笑んでいた。
 そんなん見たことないという方は、画像検索したら↓のページに載ってたので、一度ご覧いただきたい。

 もっとも、当時まだ小学生だった私は自分が将来その「鬱」に何度もバリバリ罹患するなんて思ってもいなかったわけだが、へぇーそんな病気があんの……と思いつつ、朝食を頬張った。

 この時点ではそもそも木の実ナナがなんの人なのかも理解していなかった。今も説明しろって言われたらできないかも。「西川貴教のオールナイトニッポン」のコーナーでよくネタにされてたよな。


兆候

 私は小学校の頃から算数と体育が大の苦手で、特に体育の授業は本当に嫌いだった。普段の授業はサボったり居眠りしたり、携帯をいじっているような連中が、体育になると途端に張り切りはじめるのも癪だった。学校祭の準備はまともにやらないくせに、バスケやバレーボールのパスが繋がらないと烈火の如くキレる連中に「おまんらにとってチームプレイとは何なり?」と問うてやりたかった。

 当時通っていた中学が、いわゆる「荒れた学校」だったことも、私の学校嫌いにターボをかけた。一年生の頃は朝起きた瞬間からその日学校をサボる方法を考えていて、たいていは沖田総司のように吐血するかの如く咳をし、学校を休むようになった。私のそれが仮病だと、とっくにわかっている親の蔑むような目線に耐える方が、学校に行くよりもよっぽど楽だった。

 これ以上我慢したら死ぬ。

 今にしてみりゃ自分で金を稼いでいるわけでもないくせに随分と芝居がかった生き方をしている感じがするが、当時は本気でそう思っていた。

 太陽が東から西へゆっくりと時間をかけて移動するのを、部屋のベッドに寝ころびながら眺める日々。最初こそは非日常感があって楽しかったものの、徐々にそんなのが当たり前になると、自分という人間の存在に、価値を見出せなくなっていく。
 食べ物を口から入れて、貯蔵して、時間が経ったらトイレに流すだけ。そんな筒のようなものになった気分だった。

あんた、頭も悪いし運動もできないんだから、もう死んだら?

 こういう言葉が頭の中で家族・友人・知人の声で再生されるようになって、気が狂いそうな日々が続いた。
 当時は毎日、起きてから眠るまでずっと(死にたい)と思っていた。どこか一つだけ秀でたと感じられるものが、他人には負けないと思えるものがあったのなら違っていたのかもしれない。でも当時の私には何もなかった。
 まあ、今だって「ある」って胸を張って言うことはできないんだけど。

 ずっと「学校に行きたくない」と親にはっきり言うことができなかった。そもそもそう思うことがただの「甘え」だと思っていたから、自分のことを病気だなどと思ってもいなかった。私の住んでいた街は田舎だったからメンタルクリニックとかもなくて、当時は今ほど心の病気に理解がなかった時代で、当然受診なんかもしたことがなかった。だからこうなるのは自分が弱いから。根性がないから。みんなできることが、自分にはできないから。だから死んだほうがいいんだ……みたいなループを毎日繰り返した。

 思い返してみると、あの当時の私は明らかに「バリバリの鬱」の真っ只中だったと思う。カッターで手首を切ってみたり、部屋の中をわざと散らかしてメチャクチャにしたり、学校をサボって昼夜逆転したり……と、まさにやりたい放題だった。チャットで知り合った人に会いに行こうとして、さすがにそれは土壇場で頭が冷えて止めたんだけど、あの時本当に実行していたら、今頃はnoteを書くたび「そーれエッセイエッセイ」なんてアホ丸出しなtweetを書きたれていなかったかもしれない。

 もっとも、私はやがてそんな暗く黒い時間のど真ん中で、人生で初めて「大好きだ」と言える音楽アーティストに出会うこととなる。その人の歌声に支えられたり、自分たちが最高学年になると学校の荒れ方が若干マイルドになったり、私は当時あまり家庭に普及していなかったパソコンをそこそこ使えたことによって次第に市民権を獲得したことによって、大嫌いな体育で自分に向けられる目線もマイルドになっていった。

 ……。

 西野に問う。お前にとってのマイルドって何?


回復期

 一年生と二年生で学校をサボりすぎたせいで、私は高校入試のとき、中学校からの推薦を受けることができなかった。
 本当は隣の街の高校に進みたかった。理由は単に「制服がブレザーの学校に通いたかった」というだけなのだけど、そのためにふだん数字が嫌いだと公言しているくせに「商業高校に通いたい」と三者面談で平気な顔をして宣う始末。世が世なら、親か担任に何らかの固いものでブン殴られていてもおかしくなかったと思う。

 そんな三者面談の最中、毎週のように時間割変更の通知を間違える適当な担任が言った。

「西野さあ。無理して隣街のレベル高いとこ行くより、地元の高校でテッペン獲れば?」

 まるでヤンキー映画のワンシーンみたいな言葉だったのだけど、私は「はあ。じゃあそれでいいや」という地獄のような一言で、その先の進路をある程度固めることとなった。

 結局私はこの後、地元にある頭はよくないけどバカにもなりきれない中途半端な高校に進んで、紆余曲折を経て学力に不釣り合いな大学に進み、ニキビをつぶしたときの汁と同じ勢いで社会にピュッと出ることになる。
 この辺の話は長くなるのでまた別の機会に書きたいと思うのだけど、高校三年間はとても大変だった。端的に言えば、アンタはなんて漫画を描いてくれやがったんだ……と「ドラゴン桜」の作者を泣くまで殴りたいと思う毎日だった。まあ、察しておいてほしいよ。とりあえず12時間ぶっ続けの勉強とかもう二度としたくない。私の生まれ育った街には自衛隊があるのだけど、知らぬ間にそこへ入隊させられたのかと思うほどに自由がなかった。

 そんな辛い受験戦争を乗り越え、努力が実ったときには嬉しくて仕方なかった。
 少しだけ、かつて中学の頃に死ななかった自分のことを褒めてやりたくなったことを覚えている。


 みごと志望校に受かり、四年間の大学生というユートピア生活を手に入れた私。

 いずれはその楽園を追われることになるのは理解していたけれど、まだ気づかないふりをして、遊びと飲み会と恋に明け暮れる日々へ身を投じたのである。


【つづくよ】

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、創作活動やnoteでの活動のために使わせていただきます。ちょっと残ったらコンビニでうまい棒とかココアシガレットとか買っちゃうかもしれないですけど……へへ………