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変わらない日々に泣かないこと
はじめに
基本的に私は極度の面倒臭がりだ。けれどいつも面倒ごとに巻き込まれてしまって、それらを片付けるために重い腰をよいしょと上げて、疲れ果てては温風を吹き出すストーブの前で芋虫になっているわけで。
なので「たまにはnote書こう」と思ってエディタを開いたはいいけれど、なんだか今日は妙にサイトの動作が重いし既に面倒臭くなっている。それでも書かねばなるまい。これ以上下書きを増やしたくはない。
よく噛め。秒針くらい噛め。
日常生活において誰かと話していて、自分にない考え方に触れたりすると、驚く。
たとえば小説を書くことを通して考えてみると、他の方の作品を読んで「こんな表現が、発想があったのか」という気持ちになったりすることがある。というかいつもそうだ。
そのたびに自分の発想がひどく陳腐な、味わいも面白みもないもののように感じてしまう。
けれども、必ずしもそれが真実であり正解であるとは限らないということをいつも胸に置いておくようにしている。そうしておかなければ、自分のやっていることも考えていることも何もかもが間違っていて、ともすれば自分なんて本当に無価値でなんの意味もなくて、生み出すものは排泄物と二酸化炭素くらいなものです本当にごめんなさい……みたいな状態になってしまう。
そうではなくて、単純に今まで自分の中に生まれてこなかった考え方であるからこそ新鮮でセンセーショナルな印象をもたらしているだけで、それが自分自身にもぴったりハマるものなのかどうか……ということは、落ち着いて考えてみないとわからない。食べ物も考え方も、どっちもよく噛み砕いてから飲み込むべきだ。他人がいくら健康になると言っていたって、自分にはどうしようもなくマズくて飲み込めないというのなら、無理に飲み込むよりも「こんなもん食えるか!」と吐き出してしまえばいいと思う。
譲れないものはナニ?
ぶっちゃけた話、私も作品を読んでくださった方から「こんな表現よく思いつきますね」とか「私には思いつきませんこんな発想」とかコメントをいただくことがあるのだけど、私からしてみれば(え??)と思うことも多い。自分が普通だと思っていることって、案外他人からすると鮮烈に映ることもあるんだなあ……と思うきっかけになったのは、私にとって、小説を書く行為だったと思う。
それに、たいてい私はそうコメントしてくれた方が同じように小説書きをしていたらその作品を読むし、そのたびに「こんな表現よく思いつきますね」とか「私には思いつきませんこんな発想」って思ってるし。なんならそれで普通に凹むし。
それでも、たとえそうやって凹んでも「きっと自分にしか書けないものや、感じられないことがあるはずだ」と思いつつ、キーボードを叩く。
そこまでしてでも筆を折らずに書き続けるのは、書くことをやめたら自分を変えられるかもしれないチャンスを逃すと考えているからだ。
正直言って、仕事に心血を注ぐ気にはこの先もなれないだろう。そして他にのめりこめる趣味もなく、単に自己満足で終わらず誰かに影響を及ぼして、私が生きていた痕跡をこの世界に残すことができるのは、小説書きしかないと思っている。それを辞めることはもはや死んでいるのと大して変わらないのではないか……とさえ思う。
本来の私は相当なネガティブ思考で、自分には磨けるものなんて何もないと思っていた矢先に出会ったのが、小説書きだった。普通に生きていればしなくてもいい経験を何度も繰り返してきた自分でも、これなら気合入れて磨けばどうにかなるんじゃない……と素直に思える、最後の希望と言ってもいい。
なにより、何事においても「人並みにできりゃいいよ」と思うタイプの私が初めて「唯一無二の存在になりたい」と思っているのが、小説書きであって。
そのためには多少苦しくたって、そう簡単に投げ出すわけにはいかない。
こればっかりはもう、誰に何を言われても、譲らない。
つまりは
取捨選択しつつ、それでいて自分を離さないこと。
それが私の大切にしていることかなあと。
でもみんなそんなもんなんじゃないですか。なんかもう簡単なことを難しそうに語るの疲れたからこのへんにします。
お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、創作活動やnoteでの活動のために使わせていただきます。ちょっと残ったらコンビニでうまい棒とかココアシガレットとか買っちゃうかもしれないですけど……へへ………