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バリバリの●●です。その3

前回までのあらすじ

 魔女のおばはんに「高校生活をドブに捨てて頑張りぬいたおまえに、楽しい生活を送らせてやろう。ただし期限は4年間だ。留年した瞬間に魔法は解けるからな」と言われた西野夏葉は、大車輪の如き勢いで大学生活を満喫する。
 そうして社会人生活という魔窟に放り出されてすぐ、毎日ベッドに横たわりながら雲のちぎれた繊維みたいな部分を一本ずつ数えていた頃の記憶がよみがえってきた。

 鬱。

 そいつは頼みもしないのにやってきた。

 同じ漢字一文字なら「恋」のほうがよかったよ。


診断

 私が初めて後輩に紹介された病院の心療内科を受診したのは、もうすぐ社会人になって一年が経とうとしていた頃。
 完全予約制且つ、かなり混んでいたから、電話してから実際に病院へ足を運ぶまでには一ヶ月くらい待っただろうか。その間もロクでもない事件が毎日のように職場で勃発して、病院行く前に火葬場へ行くことになるのでは……と思いながら毎日を耐え忍んだ。

 病院の場所は札幌のはずれだったが、当時自家用車を持っていた私は自分でハンドルを握って病院を訪れた。ちなみにクルマがなければ病院に行くためにはJRを使うしかなく、とてもじゃないけどそんなダルいことができるテンションではなかったから、本当によかったと思う。
 地方民は「札幌ならクルマ要らないでしょ」とか平気で言うけど普通に要るっつうのな。奴らにとっての東京はきっとクルマがお空を走っている近未来都市に見えているに違いあるまい。間違いない。私だって元々田舎者だからわかるんだよ。

 話を戻す。

 受付を済ませると、初めにいかにも「私がチーフです」みたいな顔したベテラン看護師の人と面談をして、心理テストみたいなことをやった。もう内容もあんまり覚えていないが、よく就職試験とかでやるような中身だ。

わけもなく気分がひどく落ち込むことがある。
1--ー-2-ー--3-ー--4-ー--5
< よくあるーどちらともいえないーまったくない >

こんな感じだったかな。

 それを済ませて廊下で待っている間も、再診の患者がひっきりなしにやってきた。年代も性別もさまざまで、高校の制服に身を包んでいる女の子とか、杖をついているおじさんとか。へえ幅広い、と思っていると名前が呼ばれ、診察となった。
 いかにも人のよさそうな、温和な顔をした先生が、私のカルテを表示したパソコンの前に腰かけていた。

 問診やテスト結果から導き出された診断は、抑うつ状態
 これって「鬱病」ってことですか、と私が訊ねると先生は

「鬱病と呼べる状態ではないけど、鬱病と同じような症状がいくつか混ざっている状態ってことですね。でもどっちにしたって西野さんはお辛いからここに来られたんですし、今はあまり深く考えなくてもいいんです」

 と話してくれた。

 実は、私は中学生の時、学校を休んでいたら友人から

「君のは”なんちゃって鬱”だよ」

 と言われた経験がある。だから、先生が「病名がつこうがつかなかろうが、辛かったからここに来たんでしょ? 今はそれでいいじゃん」と言ってくれたことで、それだけでもかなり心が楽になった。私の心がすっかりまいっちゃっているということを、初めて他人が認めてくれた気がしたのだ。

 あと医者の中には平然とタメ口を使ってくる存在も多い中、あくまで丁寧な優しい口調で話してくれることもありがたかった。当時はとにかく自己肯定感が低かったので、職場で電話を取るたびに(あーはいはい私には敬語を遣う価値すらないってことですね死にますさよなら)と思っていたから、ちゃんと一人の人間として尊重されていると思うことができた。
 振り返ってみたら小さすぎて笑っちゃうけれど、あの頃は本当に些細なことでも、みんなして私を駅のホームから突き落とそうとしてくるようで恐ろしかった。
 いま、こうやって生きていることが不思議だと思えるほどに。


「薬を飲むことに抵抗がないのなら、少しずつ抗うつ薬を服用してみませんか」という言葉とともに先生が教えてくれたのは、私に受診を勧めてくれた後輩も飲んでいると言っていた薬だった。初めは少量で、経過を見ながら量を多くしたり減らしたりして、最終的には飲まなくてもよいところまで回復できたらいいよね……という段階を目指すという。

 ガンバレ……などという、だりいし痒いし薄っぺらい他人からの言葉だけで奮起できるレベルはとっくにブッチギッていた。それで腹いっぱいになるなら、わざわざ貴重な公休日にこんなところまで来ることもない。縋れるものなら何にでも縋りたい。本当の自分は、心の底で(生きていたい)と思っているのかもしれない。
 そんな予感も手伝って、私は素直に頷いた。

 次回の予約は一ヶ月後。先生は「休職するのに診断書が要るならすぐ出しますよ」と言ってくれたが、その時点では(もう会社に行きたくない)というほどではなかったから、とりあえず断った。
 次回の受診までは薬を忘れずに飲み、もしそれでも限界になったときにはいつでも電話をするようにと言われた。

 ありがとうございます……と席を立とうとしたとき、先生は「あ、最後に」と私を引き留めた。


「西野さん、死んでしまいたくなるときがあると仰ってましたよね」
「はい」
「いいですか。生きている間のことは、生きてさえいればどんな形であれ必ず解決することができます。死んだら二度と解決できません。そうならずに、西野さんが自分らしく生きられる手助けをするために、僕らのような医者がいます。だから必ず次の受診に来て、またお話を聴かせてください」


 先生はそう言って、微笑みながら握手を求めてきた。そういえば後輩もしたって言ってたよな……と思い出しながら、その手を握り返した。
 もう少しで滑り落ちてしまいそうだった気持ちを、先生が引き上げてくれたような気がした。


回復期、そして――

 それから私は、朝と夜に服薬をしながら、変わらず会社に向かう日々を続けた。

 初めて病院を受診した後まもなく、毎年の定期人事異動があった。普段はポンポンと異動してしまうため周囲と打ち解けるより先にいなくなる総合職のペーペーだが、私は異動者として呼ばれず、同じ部署で二年目を迎えた。
 他の同期は労働組合の行事で失言したせいでとんでもない僻地に飛ばされていたから少しホッとしたんだけど、労組の行事での話なのに会社が出てきて懲罰めいた人事してんのおかしくない? 私も社会人になってからいくつも会社を渡り歩いているけど、やっぱあの会社は飛びぬけてヤバイとこだったよ。

 その頃になると、前年同時期には職種の違う同僚たちから「西野さん」と他人行儀に呼ばれていたのが、会社に何十年もいる生き字引みたいなおっちゃん同僚から

西野ちゃん、どうせまた同じCD何十枚も買ったんだべ? 何枚かくれよ。娘が欲しがってんだわ……へへ……

※当時の私はCD付き握手券を買うのに熱心だった。


 などと気軽に声を掛けられるようになっていた。定期異動で上司が代わったのをいいことに、私に役職者と一般社員のパイプになれって言うのなら会社行事の飲み会に出させろと喚いて、あらゆる部署の観桜会に顔を出していたのも効いたかもしれない。

 幸い、薬も身体に合っていたらしく、特に副作用も出なかった。薬のおかげか、あるいは職場環境が変化したせいなのか、はたまた単に仕事に慣れてのびのびできるようになったからかは分からないが、私のメンタルは日に日に回復を遂げていった。休日も外に出かけたり、今まで関わりがなかった同僚と飲み歩いたり、行きつけにしていた美容室のスタッフさんたちと北大生でも卒業生でもないくせに勝手に理学部の横の芝生とかでバーベキューをやっちゃったりして、充実した日々を送るようになった。

 みるみるうちに元気になっていく私。薬も少しずつ減っていった。一ヶ月に一回の受診時も「この調子だと、もう少しで薬も終わってよさそうですね」と声を掛けてもらえるようになってきて、ここから西野夏葉の人生第3ラウンドスタートか……とわくわくする気持ちさえ生まれてきた。


 こうして、私は見事(おそらく二度目の)鬱とのサヨナラを果たした。


 もっとも、その頃に偶然に出会った相手と紆余曲折あって付き合うことになって、しかも数年後にはその相手と入籍することになるわけだけど、それがまた人生における長いトンネルの入り口だということを、当時の私は知る由もなかった。
 なお、詳しくは「離婚」という、いま書いているものとは違うテーマで書こうと思っているので、ここでは割愛する。


 ……は?


 誰が「鬱の話はこれでおしまぃだょ★」なんて言った?


【まだ続くんよ】

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、創作活動やnoteでの活動のために使わせていただきます。ちょっと残ったらコンビニでうまい棒とかココアシガレットとか買っちゃうかもしれないですけど……へへ………