セミ・ファイナル
今夜も遅くなった。
右手にはコンビニ袋。ジェノベーゼが入っている。早く家に帰って、チンして食べよう。
しかし、今日も肩が凝った。タイピング中の姿勢が前のめりだと言われ、背もたれにしっかりもたれるようにしてみたはいいが、なれない姿勢に首が重い。安定した仕事スタイルを確立するには、もうしばらくかかりそうだ。ふぅ、と息をつきながら、首をクキクキと左右に伸ばした。
その時だった。
ビュンっと左の死角から、茶黒い塊が飛び込んできた。
ひゃっと声をあげて一歩下がる。ギリギリのところで避けられたが、肝が冷えて目が冴えた。この恐怖は、曲がり角からバイクが飛び出してきてひかれそうになったときのそれと似ている。
その茶黒い塊は「ギジギジギジ」と鳴らしながら、そのままの勢いでまっすぐに突き進み、壁に激突した。と思ったら、ピンボールのように跳ねて、別の壁に突進。さらに弾かれて別の壁にぶつかり、ポトリと下に落ちた。
「ジー……ジー……」
あれだけの勢いで壁に激突しておきながら、その原型を留めている塊を見て、心の底からぶつからなくて良かったと思った。
床に落ちたセミは、背中が下になっており、静かに足を動かしていた。その動きは先程までの突進とまるで別物のように鈍く、鳴き声も弱々しい。何かを嘆いて諦めているようにも聞こえた。
「電灯のせいで昼だと勘違いして鳴き続けて、かわいそうに」
先日、オフィスからの帰り道。電灯近くの木でひときわ大きな音色で鳴いているセミの声に、社長がつぶやいた。
セミが鳴くのは交尾のため。こんな夜中に鳴いていたって、メスはやってこない。いわば、無人島でずっと人を呼んで声を上げているようなもの。そこが無人島だと気付かずに。虚しく哀しい。その声は届けたい相手には届かず、関係のない人間に「うるさいなぁ」と疎まれる。
しかも、セミの成虫はただでさえ命が短い。本来休むべき夜に鳴き続ければ体力をどんどん削られ、生きながらえる時間が短くなるだろう。
そんなこととも知らずに、その図体からどうしたらこんなに鳴るのか不思議なほどに響く大きな声で「ミーンミーン……」と鳴き続けていた。静かな道路に響くその音色は、物悲しい夏の夕立の香りがした。
このセミも、あのときのセミのように昼夜を勘違いしているのだろうか。少し、便利に生きている人間の勝手で振り回してしまい、申し訳ないと感じた。
床でひっくり返ったセミは、まだ息絶えてはいない。「ジー……ジー……」とわずかに鳴らしながら、足をゆっくりと動かしている。寝返り打つにはその足は短く、ただ空をつかむのみ。羽の力も、その重い身体を持ち上げひっくり返すには足りない。
きっと、風に吹き飛ばされるか誰かに蹴られるかして転がるのを待つか、このまま干からびるかなのだろう。
……かわいそうだ。近くの木に移すか、せめて向きを変えてあげるかしようか。
そう思い、一歩セミに近づいた。
途端、「ギジギジギジ!!!」と激しい音を立てて、茶黒い塊が数センチ上がった。
私は再び「ひえっ」と声をあげて一歩後ずさった。
まるで「黒ひげ危機一髪」を刺し当ててしまったときのような、ヒヤッと感だ。なぜ、こんな短時間のうちに2度も肝を冷やさねばならないのか。
セミは直前までの漫然とした動きとはうって変わって、激しくバタついている。私は助けようとしたのに、一歩近づいただけで外敵だと思ったのだろうか。
一瞬でもかわいそうと思ったのが、気の迷いのように感じた。
一秒後、もう私の視界と意識からは、あのセミは消えていた。頭の中は「早く帰って、ジェノベーゼを食べよう」。お腹が空いた。早く食べないと、消化に時間が取れなくて、明日の朝また胃痛になってしまう。小走りに帰路を急いだ。
人間なんて、勝手なものだ。
本当に哀しいのは、人間かもしれない。
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