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ベトナム縦断記。その11(ホセマルティ広場)Entertainment or Ritual. The overlap

社会主義を観にいくためにベトナムに来た。

学術的な意義を求めているのだろうか。

おそらくそうではない。

想像もつかない世界を肌で感じてみたいという出来心だ。

ともすれば観光地に行くような意気込みでイデオロギーを捉えている。

イデオロギーがエンタメになっている。

それを見ることで心が動くだろうという期待をもっているのだと思う。

ではイデオロギーを観るとはなんなのか。

プロバガンダを読むことだろうか。

街に人にインタビューすることだろうか。

あなたにとって社会主義とはなんですか?とでも聞こうというのか。

逆にあなたにとって民主主義とはなんですかと聞かれたらどうだろうか。

たぶん、考えに考えてちょっと斜に構えた、なにがなんだかわからないことを言うのだと思う。

うるせぇ知るかよ。と思ってしまうかもしれない。

安寧の生活を前に、人はイデオロギーから無関心になる。

手に入れた体制に、人は無頓着になる。

社会主義だからなんだと言うんだ。

そのおかげで幸福なのか?

だからこそ満ち足りた生活なのか?

そうではない生活と比べても優れた生活だというのか?

ぼくは民主主義に傾倒していない。全部自分達できめるというスタンスは面倒だとも思う。

現に、日本という民主主義カントリーも間接民主主義だ。

人民は政治家に政治を委ね、行政官に行政を委ね、それぞれの失策はその対象を批判して終わりである。

民主主義の日の下に生きていながら、その恵みを感じることはそれほどないだろう。

もしも、

外から人がやってきて、

この国は民主主義の匂いがするな

なんて思うことがあったとしたら、きっとそれは不自然なものに違いない。

誰かが意図的に作り上げたものなんだと思う。

いわゆるプロパガンダということになるんだろうか。

人工的なデモクラシーに魅力を感じたとして、それは夢の国の素敵なネズミさんと何が違うんだろうか。

それに夢をみて憧れる。作り物だと認識していながら、それを感じまいとその世界に溺れる。

大いに結構だ。

どんなイデオロギーだろうが関係ない。自分の生活がどれだけ豊かなのか。

苦しみが少ない生き方はなんだ。

人々の関心は、きっとそういう方向に向かっている。

とはいえ、このイデオロギーの下で生きる以上、社会主義を前に無邪気にふるまうことはできまい。

ある程度のしきたりの中で生きているのだ。

政治に敬意を払い、警官が道ゆく景観を受け入れ、歴史に思いを馳せる。

現地人にとってこのイデオロギーはセレモニーだろうか。

社会主義の同胞であるキューバとの友好の証として作られたであろう、ホセ・マルティ広場。

中央で佇む19世紀の革命家、ホセ・フリアン・マルティ・ペレス。
そのブロンズに足を向けて昼寝をしているベトナム人。


彼は、その日常に何を思う。

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