見出し画像

癒やす文章

 何度かめの憂鬱な日がやってきた。
 近年でいちばん大きいものは新型コロナウイルスが流行した年の数年。あたまのなかを重苦しいものがうずまいている。
 もともと気丈者ではなく、自分をうまくコントロールできるとはいえぬ懊悩に取り憑かれると、それに囚われてもだえるようであったのを、時間の経過としてやり過ごしてきた。その実際の経過時間は、まさに陰鬱な気持だ。
 ルソーの『孤独な散歩者の夢想』は、みずから孤立をひしと感じた契機に読もうとして、あとまわしにした本だ。そういう、気分で左右される読書のせいで読みかけの本は大量にあるが、まったくどうとも思っていない。むしろ端緒としての入口は豊富にある分読むには困らないが、読み終えたものも少ない。しかしそうした手つづきをへて、本当に大切な内容の本は獲得されていくと思う。
 たとえばそのひとつが大江健三郎の『静かな生活』という連作短篇集になった。
 普段エンターテインメントを好む人間にとっては、なにか進展のない物語を読む気分にさせられるかもしれないが、達観した人間観が示されるところで、読んでいる自身が癒やされるということが起きた。むしろはじめ大した事がないと思えた内容が、後あとになって癒やされた経験をたびたびくりかえしている。それゆえに自分はこれを、癒やす文学という自分のなかの特別な位置に落ち着けたいという、大仰な思いがある。
 さて、今回巡ってきたふたたびの憂鬱は、風邪を引いたときよろしく、ながながしい文章は読めぬという、具体的な部分へも影響があらわれた。重苦しい色に塗りこめられたようにあたまが回らぬまま、幾度も本を投げ出してしまう……
 そんなときに試行錯誤して探索された大江の『親密な手紙』は、死後あたらしく出版されたその端正な文章に、いままでの大江とは確実にちがったものを見いだすことになった。
 特に中期の「雨の木」の大江は、ヨジクれたような文章の書きかたで、井上ひさしのいう立ち止まらせる文章の極みがかったとでもいうべきものだった。
 それが後期になって、「宙返り」以後、明確に短い文章を意識して書かれた。「取り替え子」の文章も、立ち止まらせるものではあったけど、あきらかに「雨の木」からは変容していた。
 それがいちばん読みやすくなったと感じられるのが、「親密な手紙」のエッセーの文だ。Twitter上で、大江ファン以外にはウケないが……という正直な感想を目にこそすれ、まさしく大江ファン自身にとっては、これは大江のなかではかなり端正で短い文章だとおもう。いままででいちばん端正だと感じた文は、初期の松本清張の小説だが、それとはまたちがった方向で端正だとおもう。
 そういう実感が働いたのは、自分にとって憂鬱の時に読めなかった中期に対して、これはあたまにスンナリと入ると確信されたから。「定義集」の政治色が強いですます体よりも、こちらの、政治はあるが、文学や人間も豊富な軽いものが好みだ。
 こういう私の書きぶりから、私がふたたび引用せねばならなくなった言葉。

たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く「小さな物語」よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている。

村上龍「第139回芥川賞選評」

 私には、その端正な内容こそ、めざしたい魅力に充ちている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?