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レディプレイヤー1の原作小説がクソおもしろかった話+映画の話

注:この記事は映画を見る前、原作小説(邦題:ゲーム・ウォーズ)を読んだあと書きかけて下書きに保存したまま忘れていた記事を、ちょっと書き足して公開したものです。なので基本原作小説の話がメイン。

アーネスト・クライン「ゲーム・ウォーズ」とは

“西暦2041年。革新的なネットワーク<オアシス>が張りめぐらされた世界は、深刻なエネルギー危機に陥っていた。多くの人々はそうした現実から逃避するように、<オアシス>と呼ばれるコンピュータの仮想世界にのめりこんでいた。ある日、<オアシス>のコンピュータ画面に、突然「ジェームズ・ハリデー死去」のニューステロップが現れた。ジェームズ・ハリデーとは、<オアシス>を開発し、運営する世界的億万長者。ゲーム界のカリスマ的存在だ。
テロップに続いて、ハリデーの遺書ともいえるビデオメッセージが現れ、<オアシス>内に隠したイースターエッグを一番先に見つけたものに、遺産のすべてをゆずることが宣言された——。”

もしチャーリーとチョコレート工場の工場主が、工場主じゃなくてゲームデザイナーだったら? しかも彼がとびきりのオタクで、自分が愛する80~90年代オタク・カルチャーを最も愛し自分を理解する者に、巨万の富と世界最高のIT企業と世界最高のVRプラットフォームをまるごと譲ろうとしているとしたら?——というお話。

オタクドリームの世界だが別にそれが主題じゃない

一人の大金持ちのオタクの遺言をきっかけに、世界中の人間がそれまで見向きもしなかったいにしえのオタク・カルチャーを熱狂的に追いかけ始めるという設定がもう「オタクの夢をストレートに出してきたな!」という感じ全開で最高だ。だって誰だって自分の好きなものを他のみんなにも好きになってほしいと思ってるものだし(だから俺もこんなnoteとかをちょいちょい書いている)、でもそうしようとしても「そんなの何がおもしろいの?」と言われて終わりになってションボリする確率が高いのが世間でオタクと呼ばれている人種だからだ。それが一転、世界中のみんながこぞってオタクカルチャーを熱狂的に追いかけ始め、しかもオタク知識に精通している者が「一流のガンター(エッグ・ハンター)」として尊敬さえされる世界がやってきたら?——最高の世界だ。

しかしそんな舞台設定でありつつも、決して「イェーイ、オタクサイコー!現実はクソ!リア充爆発しろ!」みたいな独りよがりな気持ち悪さがないのがこの作品のいいところだ。作者はビデオゲームやオタクカルチャーに「つらい現実からの逃避場所」という側面があることを認めつつも、「最終的に現実世界に戻って現実の問題に立ち向かうためのパワーを与えてくれる場所」として描いている。

それに、随所に80~90年代カルチャーの要素がこれでもかと詰め込まれまくってはいるが、それらはあくまで物語を彩る背景、フレーバーにすぎず、ストーリーラインの骨子は胸躍る冒険ジュブナイルであって、これは万人に向けて通用するものだ。だからオタク要素に全然詳しくなくても充分に楽しめる。俺自身も、ウルトラマン、ガンダム、ゴジラ等の日本作品以外はスターウォーズ、バック・トゥ・ザ・フューチャーあたりの超メジャー作品のネタくらいしかわからないが存分に楽しめた。

というか80年代アメリカで流行ったロックの歌詞とかテレビドラマのセリフとかATARIのゲームとか、全部覚えてるやつなんてそうそういないだろう(作中の一流エッグハンターたちは全部覚えているが)。作者と同世代のアメリカ人だって、9割くらいは「あーなんかそんなのあった気がするな」くらいじゃないかと思う。アメリカ人に聞いたわけじゃないけど。だから「オタク要素とか興味ないしな」と思って躊躇している人には、そこは問題じゃないからすぐ読めとはっきり言っておく。

俺はこの小説がオタクを持ち上げる作品だから好きなわけではない。自分の好きなカルチャーの要素を好きなだけ作品の舞台装置にブチ込んだ上でキッチリと万人受けする王道なストーリーを展開し、読み終わる頃にはわからない読者もわからないながらに『なんか……80~90年代オタクカルチャーって素敵なものかも……』と思わされてしまっているというアーネスト・クラインの職人芸が最高にクールだと思ったから好きなのだ。

テクノロジーと人間の善性を明るく描いている

この小説で俺がもう一つ好きなところ、それは作品の根底に流れている、テクノロジーの未来についての楽観的かつ前向きな思想だ。冒頭であらすじを引用したが、「社会は深刻なエネルギー危機とそれに起因する様々な問題を抱えており、人々は現実から逃避するかのようにVRに浸ってばかりいる」というのは客観的に見てあまり良くない状態だろう。一種の閉塞したディストピアとして描かれてもおかしくない。だが、この作品ではそうは描かれていない。社会は様々な問題を抱えてはいるが、それはあくまで過渡期的な状態であって、いずれテクノロジーの力と人々の善性によって克服される……そのような明るい希望を未来に感じさせるものになっているのだ。

その希望の最たる象徴が、主人公のウェイド少年(パーシヴァル)だ。ウェイド少年は極貧の家に生まれた上に早くに両親をなくし、引き取られた先のスラム街でクズ親族に生活保護のチケットを奪われたり殴られたりして暮らしている。それでも腐ることなく前向きに、したたかに生きている。最高のVRゲーム<オアシス>があるからだ。彼はゲームを親、ベビーシッター、そして教師として育ち、ゲームを通じて読み書き計算から世の中の仕組みまで色々な知識を得た。我々の暮らす現実世界でも、最近は第三世界の貧しい若者がインターネットを通じてMOOCで授業を受けているうちにアメリカの一流大学に才能を見出され……みたいな話がちらほら聞かれるようになっているが、その延長線上にあるテクノロジーの申し子がウェイド少年だ。

そしてそのウェイド少年はやがて、<オアシス>を悪用して市民を搾取する道具として使っている暗黒メガコーポ・IOI社と対決していくことになる。IOI社はハリデーの遺産を奪って<オアシス>を根本から作り変え、世界的VRネットワークというインフラをスポイルして目先のカネに変えてしまおうという邪悪かつ愚かなたくらみも持っており、ウェイド少年は仲間たちとともにこの企みを阻止するために立ち上がることになるのだが……クライマックスにおいて、<オアシス>のユーザーたちがIOI社のたくらみを挫くために集結する場面は胸が熱くなった。

基本的に、<オアシス>一般ユーザーもみんなワンチャンイースターエッグを手に入れてハリデーの遺産をゲットして億万長者になりたいと思っているのであり、いわばウェイド少年とはエッグを奪い合うライバルの関係だ。そんな彼らが自分が遺産を手に入れるという目論見を捨て、ただIOI社を挫くためにウェイド少年に助勢すべく駆けつけるのだ。ほとんど一人残らず。人間誰しも莫大な財産は欲しい……素晴らしいテクノロジーを作る人間もいればテクノロジーを悪用するクソ野郎もいる……でも、最終的には人々は損得を超えてクソ野郎を倒すために立ち上がることができるし、クソ野郎は倒されてテクノロジーは正しい人々の手に渡る……そういう前向きな人間観が、物語全体を通じて描かれている。もちろん現実にはそう簡単にはいかないものだが、人間も捨てたもんじゃねーなと未来への希望を感じさせてくれる前向きな物語というのは気持ちのいいものだ。

で、映画はどうだったか

もちろん、映画は俺は公開初日に見に行った。一言で言えば……サイコーだった。スピルバーグはやっぱり天才だ。クリスタルスカルはなにかの間違いだっただけだ。

正直、俺は予告映像を見た段階ではそこまで期待していなかった。確かにCGは派手で綺麗だが、なんだかケレン味が強すぎて現実感がないように感じて、物語に入り込めないのではないかと心配になったのだ。もっというと、スピルバーグは天才とはいえもうおじいちゃんなので、VRを「我々の現実の延長に実際にあるもの」として理解できず「ファンタジックななんかスゴイ未来テクノロジー」として捉えてしまっているのではないかと心配になっていた。

だが……そんなことをゴチャゴチャ考えている時間は完全にムダだった。細かな解釈違いとかどうでもよくなるくらい圧倒的な映像のうまさによって、あっという間にパーシヴァルたちの冒険の物語に引き込まれてしまった。権利的に映像化は難しいのでは?と思われるような、<オアシス>内に登場する既存ゲーム・映画・マンガ等のキャラクターも可能な限りちゃんと登場してお祭り感を盛り上げてくれていたし(ウルトラマンはなんか権利関係の訴訟があった?せいで欠席になってしまったが、代わりにガンダムががんばってくれた)、原作のいくつかの要素はオミットされていたものの少年の冒険物語としてスッキリと再構成されておりむしろ映画のストーリーとしてよかった。

でも、しかし、だからこそ……ラストのまとめ方だけは納得がいかない部分がある。そういうことじゃないだろ!!確かに原作も現実逃避のゲームから、最終的には現実に回帰していく物語だ。しかしそこに込められたメッセージは言ってみれば、ゲームを通じて育まれた絆や力は現実世界だって変えていける、善いことに使っていけるという前向きなものであって、決して「ゲームは1日1時間」的な話ではなかったはずだ。

とにかくそこだけは納得がいかず、ほとんど最高の映画体験だったにもかかわらず最後の最後で冷水をぶっかけられたような気持ちになってしまった。やはりスピルバーグは天才だがおじいちゃんだということなのか……。

とはいえいい映画だったか?と言われれば100%イエスだし、見に行くべきか?と言われたらこれも100%イエスだ。そしてもし、映画を見て「最後のアレだけはなあ……この21世紀にVRをテーマにした映画でアレはなあ……」とラストにもやもやしたものを感じてしまったら、その時は原作小説を読んでみて欲しい。天才スピルバーグのちょっとした解釈違いに過ぎないということがわかってスッキリできるはずだ。俺からは以上です。

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