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茶の湯してるうちに「行雲流水」の意味が5重くらいに見えてきた話

 「行雲流水(こううんりゅうすい)」という言葉があります。四字熟語や禅語として使われていますが、試しにググってみたら色々なお店や商品の名前になってたりもして驚きました。それだけこの言葉を好んでいる人がいらっしゃるのかなと思います。
 僕の場合、中学生の頃に漫画のキャラクターからの影響でこの言葉が好きになり、それから30年以上、僕の中での「行雲流水」の意味やイメージはまさにそのキャラそのものでした。

 が、茶の湯を数年前に始めてからその言葉が示す意味合いが自分の中でどんどんと増えていきました。今では5つくらいの意味が重なっているように思えています。その感覚を一度文章にして客観視してみたい気持ちもあり、それらを書き出してみました。

※以降、あくまで個人的な主観によるものであり、一般的な「行雲流水」のとらえ方とは異なる点もあることを予めご了承ください。

意味その1:周囲に流されず自由気ままに生きる


 僕が小学生から中学生になる頃に流行った『北斗の拳』(ほくとのけん)という漫画があります。舞台は核戦争で人類の多くが滅びた後の無法者がはびこる世界で、弱者をしいたげる強者に対して拳法の達人である主人公(ケンシロウ)が単身で戦いを挑んでいく、というストーリーです。劇画調の濃いタッチで描かれる迫力あるバトルと濃密な(男臭い)人間ドラマに、僕を含めた当時の男の子は夢中になりました。
 しかし、僕が冒頭で触れたキャラというのはこの主人公ではありません。「雲のジュウザ」と呼ばれる男です。彼はかなり大規模な集団のトップに仕える5人の実力者の一人で、今で言えば大企業の重役みたいな立場にいます。が、なんと彼は働きません。周囲に何か言われようと自分が気乗りしないことはせず、「俺はあの雲のように自由気ままに生きるのよ。」と言ってのけます。しかし彼は凄腕の拳法家であり、最後には自分の意志で命がけで戦うのです。自由で周りに流されず、しかも強い、という彼に当時の僕は憧れました。それからしばらくして「行雲流水」を知り、「まさにジュウザを表す言葉だ!こんな風に生きたいよなあ。」と思い、この言葉が好きになったのです。

 このように、「行き交う雲や流れる水のように、なにものにもとらわれずに自由に生きる」というジュウザのような振る舞いを表したものが僕にとって最初の「行雲流水」の意味でした。

このまま30年ほどが経ちます。

そして、茶の湯と出会い、稽古をしたりお茶にまつわる様々な経験をするようになりました。ここから僕の「行雲流水」は移り変わっていきます。

※以降、「流水」の部分を「川」と扱っていたりしておりますのでご注意ください。

意味その2:世の中は変わり続ける


 以前の僕は茶の湯に対して伝統的で非常に固いイメージを持っていました。ですが始めてみると、想像よりずっと多様で千変万化です。
 茶室の装いや使う道具は季節に応じて変わります。また、道具と一口に言っても色や形・大きさ・重さ・材質など様々で、茶会の主催者はそれを毎回のテーマに応じて使い分けます。歴史的に見ても、利休が活躍した戦国時代、太平の世と言われた江戸時代、激動の幕末から明治維新を経て現代まで、各時代によって茶の湯のあり方も移り変わりつつ、現代まで続いています。
 鎌倉時代に書かれた随筆「方丈記」の冒頭に

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

https://www.bou-tou.net/hojyoki/

という一節がありますが、変わりながらも長い年月を経て続いている茶の湯を思い、雲や川も「いつもそこに変わらず在る」のではなく、それ自体が変わり続けていることの方に意識が向くようになりました。

意味その3:続くとは循環すること


 茶の湯では季節の流れに合わせて茶室の様子や扱う道具を変えていく、というのは先ほど書いた通りです。しかし12ヶ月後、つまり翌年にはまた同じものが巡ってきます。もっと広いスパンでは十二支があります。干支(えと)の動物をあしらった道具などは12年に一度しか使いどころがありません。それが終わると12年後にまた同じ道具を使う機会に思いを馳せます。つまり、使うものが変わりつつ繰り返してもいるのです。
 そういった面のある茶の湯をしているうちにふと、雲も川も「水が姿を変えたもの」という点では同じではないかと気づきます。つまり「行雲流水」とは、天と地を水が循環していく様をも表しているのだと思うようになりました。
 変わり続けながら雲も川も無くなることがないのは、雲が雨を通じて川になり、川や海からの水蒸気がまた雲になるからです。つまり、変わり続けながらも存在し続けるためには、「循環」が必須なのだと思うようになりました。
 その視点で考えると、近年の社会は生産しては消費するという一方通行の面が大きいと思います。そこに色々なアンバランスさも出てきてしまっている気がして、以前にこんなnoteの記事も書いてみました。

茶の湯が促してくれる「心の発酵」~分解→新たな創造へのココロの循環~

ここまでがだいたい2年ほど前です。
更に変化は続きます。

意味その4:立場に上下など無く、あるのはその都度の役割である


 茶の湯には「主客一体」「一座建立」という言葉があります。主催者(ホスト)が客(ゲスト)を「お客様は神様です!」とばかりに一方的に歓待するというよりは、立場の上下なく皆で一緒にその場を作っていくという考え方です。
 これは、先ほど述べた水の循環と似ています。地面を流れる川に対し、はるかに天高くある雲。その立ち位置や役割は違いますが、共に水からできており互いに姿を変えながら世界に恵みをもたらしています。つまり、高い所にある雲が偉いとか、地べたを流れる川が凡庸だとかいったことはありません。茶の湯での場を構成する主客が一体であるように、世界の水を司る雲と川も一体なのです。社会での立場や地位の違いというものも、上下関係というよりは社会の中で果たす役割が違うだけなのだという視点で見るようになりました。

意味その5:「存在」に悩まされる必要など無い


 お茶を点てていると、時として自分と周囲の境界がぼんやりするような時があります。例えば、柄杓で茶碗に湯をそそいでいる時に、なぜか「自分自身を茶碗にそそいでいる」感覚になったりします。
 考えてみれば、雲とは一体何でしょうか?雲とは細かな水滴の集合体であり、はっきりとした周囲との境界も無く、1つの固まった存在ではありません。川も同じです。大量の水滴が集まって高い所から低い所へ向かって動いている様子を「川」と呼んでいるだけです。個々の水滴は常に流れ去っていくだけで、「川」そのものが固定的にあるわけではないのです。
 「自分」もそうです。僕自身の身体は数十兆もの細胞が集まったものですが、着慣れた服や使いこんでいる道具は身体の一部のように感じたりもします。有能な部下を「右腕」と呼んだり、自分の大切に思っている仕事や人達がないがしろにされれば自分自身のことのように怒ったりします。そう考えると「自分」の定義とは、意外とあいまいで幅広いものなのだなと思います。
 さらに言えば、人間の思考や意識も脳内の電気信号の「流れ」で構成されています。いわば、水が流れていく様子を「川」と呼ぶのと同様に、電気信号が流れていく様子を「自分」と考えているだけで、固定的な「自分」というものが存在するわけでもありません。
 つまり、雲も川も自分自身も、意外と周囲との境界はあいまいで、確固とした存在でもないんですよね。もう少し大きな視点で見れば、138億年前にビッグバンが起こって以来、無数の原子や素粒子がくっついたり離れたりしつづけているこの世界の「たまたまの今の状態の一部」でしかない。

 川が枯れたら、川という存在は消えたように見えます。同じように僕の身体の血流や脳内の電気信号が止まったら、僕という存在は消える(=いわゆる死んだ状態になる)のでしょう。でも、枯れた川の水は空中の水蒸気や地面にしみ込んだ地下水になったのと同じように、「僕」に縛り付けられていた原子はまた自由になって世に散っていき、別の何かになるだけの話です。(科学的に言えば質量保存の法則)。そう考えれば、僕ら人類全ては既に不老不死を手に入れていると言えるし、本当に死ぬ(=存在が無くなる)ことなんてそもそも不可能だとも言えます。

・・・とまあ、お茶を点てているうちに上記のような考え方もあるかもしれないと感じるようになり、自分という存在にそんなにこだわらなくていいんだ、と思うようもなりました。そのおかげか、以前よりも普段の心持ちがとても軽くなった気がします。
 

ここまでの意味のその先に


ここまでが現在ですが、まだまだ先はある気がします。
それがどんなものか、どうなったら見えるのかはわかりませんが、「とにかく大きな何かがきっとありそうだ」というワクワク感は尽きません。

僕にとって茶の湯とは、そういったワクワクする心の冒険をするための地図であり、前方や周囲をほのかに照らすサーチライトのようなものなのです。

だから僕は茶の湯を続けています。


好き勝手なことを気ままに書いてるだけですが、頂いたサポートは何かしら世に対するアウトプットに変えて、「恩送り」の精神で社会に還流させて頂こうと思っています。