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私の中の芯


私は、自分という人間を快く思っていなかった。
これも自己卑下と言われてしまうのかもしれないけれど。

「あの時、あんな言い方をするべきでは無かった」
「この言い回しは、洗脳的では無かったか」 
「この言葉は、相手に厳しすぎたのか」
「この態度で、相手は辛く思ったのではないか」
「私はなんて、偽善的で、詭弁ばかりの人間なのか」 
「八方美人で、最低な人間だ」

そんな事ばかりを考えて、自分を責め立てていたからだ。
もちろん、救えた人もいるのだろう。
同じくらい、傷付けた人もいるのだろうと思う。

それは仕方の無い事で、価値観など人の数だけある。
100人に当て嵌る正解なんてない。

それでも、正解で「あろうとする」
理想の自分で「いようとする」

これは、根付いた強迫観念である事は理解している。 
そも、そう思うのならどうして他人と関わるのか。
どうして首を突っ込み、対話するのか。

だれも傷付けたくないなら、誰とも関わらなければいいのだ。
ここ最近、自分について熟考する時間が多い。

最近まで「人間が嫌いな唯」と「人間が好きな唯」
どちらかでなければならないと思っていた。

10年前の日記を読んで、今の私が気づいた事。 

どちらも間違っていない、同居するものだ。
人が嫌い、人が好き。
その上でどう生きるかが大切であると。

私は、大事にしたい人を、正しく大事にしたいのだ。 
その為には知識が居る。
経験が必要だ。
説得力が不可欠だ。
その道では、誰かに嫌われる事も必要なんだ、と。

だから、私は言葉選びが強くなってしまうのだろうと思う。
自信の無い言葉は相手を不安にさせるから。

大事な人が、少しでも、ほんの少しでも楽になってくれるなら。

その時その時に必要な私の"語彙"を変えて、伝える。 
それが周りから「厳しい」と言われようと「優しい」と言われようと。

私は救う為に生まれた人格だ。
もう、救うべき子は私とひとつになってしまったけれど。

私は、この「救う」という芯の為に、自分の語彙を使っていきたい。
だから、後悔はしなくていいんだと思いあたった。
合わなければ、それまでなんだ。

私は、私の持ちうる知識と経験と語彙で、私なりに救える人を救っていきたい。
詭弁だと言われようと。

善い人でありたい。
誠実でありたい。
苦しかろうと、それを捨てたら本当に唯ではなくなるのだから。

今まで間違った言葉を使っていたなら、より学習して同じ事を繰り返さないように。

折り目正しく、生きていきたい。
その最中で、護りたい人、大事な人に「善い人だ」と。
「優しい人だと」
そう言われたなら、大人しく受け止めようと。

口癖の様に、私は優しい人じゃないと言ってきていたが。
それも、やめようと思う。
誰かにとっての優しい人でもいいんだ。
誰かにとっての厳しい人でもいいんだ。

私にとっては「救う人」であるなら。
それでいいのだと、最近は思えるようになったのだ。 

という小噺。

支えてくれようとして頂ける事に深い感謝を。