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【大内家の野望 新生】第1話:北九州攻略戦 〜仲津の戦い

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メールマガジン『ビジネス発想源 Special』にて約8年、400回にわたって連載し、AmazonのKindleストアで多く電子書籍化もされている、歴史から経営やマーケティングのヒントを学ぶビジネスコンテンツ『歴史発想源』

今年7月に新発売となったコーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望 新生』を使って、その第1章「大内二代篇」の状況から天下統一を目指す番外篇「大内家の野望 新生」を連載いたします。

・コーエーテクモゲームス『信長の野望 新生』

・前回の「大内家の野望 新生」第0話

▼第1話:北九州攻略戦 〜仲津の戦い

■最初の標的は、筑豊の秋月家

さあ、大内家の天下統一に向けて始めよう。

山口館(山口県山口市)を拠点に8城を展開する大内義隆が当主の大内家は、ゲーム開始時から安芸の毛利家とは同盟関係にあり、豊後の城井家は従属関係にある。従ってこれから攻め込める隣接勢力は、出雲の尼子家、筑豊の秋月家、そして豊後の大友家ということになる。

最初から毛利家とは同盟関係、城井家は従属している。

事前にテストプレイをした際、とにかく大友家が強大になって九州半分を席巻して激闘を繰り広げ、その間に同盟期限が切れた毛利家が攻めてきて、この二大勢力を東西で対処するのにとてつもない年月がかかった。

そこで、大友家とも1年間の同盟を組むことにする。大友家と対決するなら1年後だ。そして毛利家とも同盟が切れないように親善を結んで友好度を高めておくことにしよう。

毛利家はあまりにも人材が豊富なので、自然に強大になっていくから、尼子家を勝手に侵食する。唯一隣接する山吹城(島根県大田市)を毛利家に譲れば、東の隣接勢力は同盟者の毛利家のみになるから西進に集中できる。そうなると必然的に、最初に攻略するのは古処山城(福岡県朝倉市)の秋月家ということになる。

最初のターゲットは古処山城だ。2100の城兵がいるようだ。

秋月文種(あきづき ふみたね)を当主とする秋月家の拠点・古処山城には現在、2100の兵がいる。大内領の立花山城(福岡県福岡市)には3000、門司城(福岡県北九州市)には1700の兵がいるから、山口からも兵を回せば余裕で勝てそうではある。しかし、1年後に九州の雄・大友家との死闘が始まるとなると、できる限りうまく勝って兵力をなるべく温存したい。

そこで、一揆扇動を仕掛けてみる。古処山城の北にある秋月家の所領の鞍手郡あたりで、調略開始。

鞍手付近に顔マークが出た。うちの将が謀略を仕掛けている証拠だ。

秋月領内で一揆の扇動に成功し、その鎮圧のために秋月文種の軍勢1200が古処山城を出撃。城にはわずか900の手勢しか残っていない。

大友家とは同盟を結んだが、提携したばかりではまだ援軍を頼めるほどの友好度が蓄積されていない。そこで従属勢力の城井家に合流を打診したが、大友家が城井家を攻め始めたために実現しなかった。単独で攻めるしかない。

一揆鎮圧のために古処山城から1200の秋月軍が出撃し、城兵はわずか900。

すると、大友家が城井家の城井谷城(福岡県築上町)をすごい勢いで攻め始めた。このままでは城井家への援軍に主力を回すことになるし、また古処山を先に大友家に奪われば強大化を許すことになる。城井家には自力で頑張ってもらって、とにかく古処山城の攻略に全力を注ごう。

各地で一揆扇動や流言などいろいろな調略を仕掛けながら、山口からもどんどん兵を回して、約2万の大内軍の総力を上げて古処山城を攻撃。当主・大内義隆も本隊6000を率いて関門海峡を渡り、城攻めに参加だ。

古処山城を総攻撃。でも横で城井谷城が大友勢に攻め込まれている……。

秋月家は兵力が2000しかなく、しかもどの勢力とも同盟を結んでいないので援軍も呼べず、大内家の猛攻にさらされるだけである。落城は間違いないだろうが、早く城井谷城を助けてやらないと……。

1546年、2ヶ月に及ぶ城攻めで古処山城を奪取し、秋月家は滅んだ。秋月家には大した武将はいないが、大内家の傘下に入る。

秋月家滅亡。大内家にとっては開始以来初めての勢力拡大だ。

軍師役の相良武任とは相性が悪い奉行人の青景隆著(あおかげ たかあきら)が、「この勢いで中国統一を目指してはいかがでしょうか」などと平気な顔で言ってきた。

初めての勝利で、奉行の青景隆著が何か言い始めた。

今作ではエンディングが「地方統一」「三職推任」「全国統一」の3種類あり、まずは「地方統一」を目指すことになる。大内家は山口だから中国統一に向けての話になる。中国統一は29城を制覇する必要があり、端にいる大内家は兵庫県あたりまで制覇していかなくてはならない。

事前のテストプレイの時は、この進言が出るので中国統一を優先しないといけないのかなと思って、毛利家と激闘を繰り広げている間に背後から大内家や島津家らの侵攻にも苦慮して、中国統一に30年近くかかった。

今回はそれよりも、毛利家との対決は後回しにして、背後の九州を先に制圧しておくことでもっと力をつけておくべきだと考えた。後顧の憂いを断った後で毛利家との決戦に集中しよう。

中国統一を目標に掲げてくるが、背後の九州の制圧が先決だ。

そんなことを考えるうち、あっという間に城井家が大友家に滅ぼされてしまった。大友家の領土は豊前まで食い込んできて兵力や生産力も増え、我が大内家とがっつり隣接するようになってしまった。

まだ大友家との同盟期間は続いているので、いよいよ隣接勢力はなくなってきた。東の尼子家ぐらいである。

秋月家と城井家が滅亡して、大友家との隣接境界線ががっつり長くなる。

今作では、同盟勢力の領地を通過することができる。幸い、大友家の向こうに少弐家(しょうに家)があり、立花山城からだと少弐氏の拠点・勢福寺城(佐賀県神埼市)はさほど遠くない。

ちょうどその時、佐嘉城(佐賀県佐賀市)の龍造寺家龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)が大友家と組んで少弐家の西の所領である伊万里城(佐賀県伊万里市)を攻めて勢力拡大を始めた。そのため勢福寺城からも少弐軍が応援に出て、城を守っているのはわずか300。

不覚にも、大友家が龍造寺家といつの間にか同盟を結んでいたことに気づかなかった。このままでは勢福寺城も大友家か龍造寺家の手に落ちてしまう。そこで急いで、大友家の領土を通過させてもらって勢福寺城を攻めることに。

制圧したばかりの古処山城にはまだ兵があまりいないから、コツコツと練兵場を作って兵を増やしていた立花山城から、弘中隆包が7700の兵を率いて大友領を通過して勢福寺城へと進軍。

少弐氏が西で龍造寺氏と戦っている間に、肥前神埼の勢福寺城へと侵攻。

一応、龍造寺家とも同盟を結ぶ。勢福寺城が落とせても飛び地になってしまうので、背後から龍造寺家に攻められたらイチコロだからだ。そして念のため、門司城や山口方面からも総力を上げて兵を回す。

城兵が300しかいない勢福寺城は簡単に攻略できたが、それよりも一瞬早く龍造寺家と大友家が伊万里城を落としていたため、その後の勢福寺城の攻略成功によって少弐氏は滅亡。

龍造寺家に伊万里城、大内家に勢福寺城を奪われて少弐氏は滅亡。
少弐氏に残された家臣たちも、大内家に属することに。

武将たちは城を落とされて解放されると残る城に引き上げるので、最後に落としたことになった勢福寺城に少弐氏の家臣団がみんないて、まとめて大内軍の傘下に加わってもらうことに。

ちなみに降伏せずに我を張る敗将については、基本的に解放することにしている。ただし「統率」「武勇」「知力」「政務」の4つの能力がどれも50に満たない武将であれば、あまり使い道もないので、一度は逃すが二度目からは処刑ということにした。


■九州最大勢力の大友家との対決

古処山城、勢福寺城と領地を拡大した大内家。これでなんとか大友家に対抗できる力を持ったのかなと思ったら……

1547年時点の最大兵力ランキング。大内家は3位だが……

大内家が最大兵力22950で、畿内の三好家や関東の北条家に次いで全国3位になっていると思いきや、大友家も最大兵力20400で4位で肉薄しているという状況に。

ついに大友家との同盟期限が切れて、これから泥沼の決戦が始まるところだが、全国3位と4位の大勢力同士の戦いになる。うまくやらないと、消耗戦になってしまう。

なんと言っても大友家には良い人材が多い。武勇も統率力もオールマイティに強く全国十指に入るほどの逸材・戸次鑑連(べっき あきつら/後の立花道雪)、その師で優れた知略の持ち主の軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)などいろんな名将が控えている。

雷を斬り名刀「雷切」を手に入れたという戸次鑑連。強すぎる。

隈本城(熊本県熊本市)の阿蘇家は一応同盟を結んでおいたが、大友家と同盟を結んでいて動いてくれない。そこで南伊予(愛媛県南部)の西園寺家、日向国(宮崎県)の伊東家とも同盟を結んで大友領に攻め込んでもらう。

西園寺軍には海を渡って東から臼杵城(大分県臼杵市)、伊東軍には南から縣城(あがた城/後の延岡城/宮崎県延岡市)、龍造寺軍には西から久留米城(福岡県久留米市)を同時に攻めてもらい、大内軍は北から城井谷城を狙うという4方向からの侵略作戦で行くことに。

ところが、大友家は4方向に兵を散らすと思いきや、当主の大友義鑑(おおとも よしあき)が自ら17000の大軍勢を率いて、本拠地の府内館(大分県大分市)から本気の迎撃に来た。他は籠城作戦で、大内家に兵力を集中してきたのだ。

大内義隆率いる大内軍本隊の兵数は12600。後続部隊が追いついておらず、思わぬ劣勢のまま当主同士が仲津(大分県中津市)で激突することになってしまった。これはまずい。

しかし大友軍が4部隊なのに対し、大内軍は幸いにも5部隊の編成だった。部隊数が相手より多いと、その余る部隊は戦地の要所を取りに行ったり、後ろから挟撃をしたりと使い勝手がいい。大友軍を右へ左へと翻弄しながら、挟撃を実現して相手を追い込んでいく。

左右に展開して挟撃を繰り返して、兵数も逆転。勝てそう。

そして隙を見て、相手軍の後方にある退き口を破壊。大友義鑑隊、そしてその息子の大友義鎮(よししげ/後の大友宗麟)隊の逃げ道を挟撃で塞いで壊滅状態になるまで攻める。

最初は兵力の少なかったこちら側もかなりの犠牲を払ったが、退き口を取られた大友義鑑軍は17401の兵のうち14760を失うほどの大敗。見事に大内義隆軍が勝利を収めた。

「仲津の戦い」。兵数で勝っていた大友軍を壊滅状態に。

この大逆転劇で「威風」が発生し、日向国の伊東家など周辺勢力が「あの大友家を破るなんてすげーな。侮れないな!」と大内家に注目するようになり、また大友家の3郡も大内家に恭順してくるなど、今回の勝利は大内家にとってかなりの追い風になった。

大友軍を破ったことで「威風」が発生して、大内軍に好調の風が。

本拠地の府内館の兵の大半を失ったわけだから、大友軍は慌てて筑後領などから兵を回すが、それで筑後の諸城は手薄になって、龍造寺軍の援軍とで攻めていた久留米城や岩屋城(福岡県太宰府市)なども次々に落とすことができた。

そして、当主の大友義鑑が出撃中の時に府内館の留守を守っていた名軍師・角隈石宗が、諸城から兵をかき集めて府内館から撃って出てきた。しかも岩屋城から撤退していた弟子の名将・戸次鑑連まで従軍している。

しかし「仲津の戦い」で12000から4624まで減っていた大内義隆本隊も、後続の部隊が続々合流してきていまや18545の大軍勢だ。対して角隈石宗の舞台はかき集めたと言ってもわずか2575だ。容赦なく潰しておこう。「大分の戦い」の開幕である。

大友軍の名軍師・角隈石宗が府内館から出撃してきた!
大内軍18545に対して大友軍はわずか2575。圧倒的な兵力差。

九州屈指の知将・角隈石宗、九州屈指の勇将・戸次鑑連の両将がいるといっても、7倍以上の兵力差で3倍以上の部隊数ともなれば戦局を覆すのはまず不可能である。正面からぶつかるだけでもすぐに殲滅。

こうして「大分の戦い」は、大内軍はほとんど兵力を失うことなく大勝利。角隈石宗と戸次鑑連は兵をまた失って府内館へ引き上げた。

大友家は連敗で多くの兵を失い、本拠地の府内館は岡城(大分県竹田市)などからかき集めた5000程度の兵のみで、東の西園寺家や南の伊東家の信仰にも対応中の今はもうこれ以上はどこからも集められないはずだ。

ここで大内軍は、北九州の諸城の全軍だけでなく、山口一帯に温存してあった兵も一気に大分に向かわせる。実は周南(山口県周南市)と国東半島(大分県国東市)には海を渡れる航路があり、山口館や周防高森城(山口県岩国市)の兵は直接府内館を狙えるのだ。

北九州勢が陸路から、山口勢が国東半島の海路から府内館を狙う。

府内館の鉄壁の防御力、そして大友義鎮・戸次鑑連・角隈石宗らの名将の奮戦で、なかなか府内館を落とすのは大変そうだが、大内軍の総力を結集して全軍で府内城へと突入。九州の雄・大友家の喉元を押さえるまで、あとわずか!

(第2回へつづく)


【武将名鑑】(1)大内義隆(おおうち よしたか)
大内義興の嫡男で第16代大内家当主。文化的な感性に優れ、山口を京の都を凌ぐ文化都市へと発展させた戦国大名。史実では1551年に家臣の陶隆房(後の陶晴賢)に、文治政治に呆れられて大寧寺に追い詰められ自害。4年後の大内家の滅亡の契機となる。


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