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小説・「塔とパイン」 #05

コーヒーをひと口飲んで、ほんの僅かな一息ついたあと、生地作りに取り掛かる。生地作りは職人にとっての命綱。生地の出来が、味を左右する。これはどんな業界でもおんなじ。

大袋から、小麦粉を取り出して、ボウルに移し替えた。小麦粉はイタリア製でパスタ好きのオーナーが、ボローニャにバカンスに行った時に、食べたパスタに感銘を受けて、小麦粉生産者に掛け合ったらしい。


パスタに使う小麦粉。そこからどうやって焼き菓子の小麦粉に結びついたのか、センスはよく分からない。だけどオーナーも慧眼で、よく見つけたと思う。


「違いは何なんだろうか?」


いつもは、機械的に袋から掬って、混ぜるだけで、作業中は考え事はしない。いや、考えて作業をすると、質が落ちる気がするから。失敗したくない。


だけどこの日は、ふと考えてみた。


市販の小麦粉とは違う、香ばしい香り、そして生地にしたときのノリが違うとは思う。小麦粉を変えるだけで、ここまで変化が出るのは正直驚いた。毎日、生地と格闘しているからか、僅かな違いとはいえ、よくわかる。


わかっているのはイタリア産ということだけ。

頭の中で勝手にイタリアの広大な農場で刈り取り寸前の、黄金色した小麦の穂をイメーしてみた。いつか、小麦の穂に触れてみたいと思った。


作業に没頭して、周りが見えなくなるのは、悪い癖。自分でも自覚しているのだけど、なかなかこの癖は治らない。仕事中は尚更だ。


30代後半になってようやく、過集中が癖なのだということに気づいた。あれから数年経つが、癖は治らない。いや、もう、治すつもりもない。


「いいんだ、それで」

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