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生活を削るミニマリズムは嫌

ミニマリズムを実践してきて、かなりの年数が経っています。軌道に乗るまでは、ゴリゴリにモノを減らし、徹底的にやらなくていいことは、やらない。それを続けてきました。


もともと、モノをたくさん持っていたので、その180度異なるライフスタイルに戸惑いつつも、ここで立ち止まってはいけない!と、可能な限りミニマムにしていったのを覚えています。


軌道に乗ってくると、それが楽しくなってしまって、「これをなくしたら、手放したら、どうなるんだろう?よし、捨てよ」っていって、過剰な感じで手放していったことも。


まぁ、手放しても「生活ができる」ということもわかったんで、ある意味収穫ではあったんですけど、それでも「不便を感じる」ようになってきたときに、ふと思いました。


これ、なんか違くね?


そうなんです。もうお分かりだと思うんですけど、ちょっとやりすぎていたんです。


例えば、テレビを見ないから捨てる。これは元々、ミニマリズムを始める前になりますが、確かに「テレビを見る時間が減っていた」し「見たい番組も減っていた」ので、無くしてしまっても、問題ありませんでした。


だから、テレビを捨てても「不便」を感じることはなく、今も「テレビなし生活」は続いています。もう、テレビはいらないかな?って。


これは無理している認識もないし、無理して言っているわけでもない。だから、無理なくできているんですよね。


こういうのは、別に生活を削っている感じはしないので、問題ないです。

別に流行に乗り遅れたって、構やしない。テレビ見てなくても、流行に乗り遅れるのかというと、そういうわけでもないですよね。


自然にそれができている。そして違和感なく、普通に生活できている。そういう状態が望むべく。そして、モノが少なくて済む。こういう形が理想的なんです。


逆に生活を削りすぎて、失敗した例もあります。それが「手洗い洗濯」

洗濯機を手放して、「手洗い洗濯」で生活してみよう!って考えた時期がありました。退路を断つため、洗濯機を手放し、そして買うこともなく、しばらくそのまま過ごしていたんです。


結果上の記事でも書いたとおり、「これは無理だな!」ということがわかりました。まぁ、わかっただけでも「教訓」として生きているので、無駄ではなかったんです。


ストイックになりすぎて、逆に生活に支障が出た、教訓ですw


つまり生活を犠牲にして、削りすぎても生活が成り立たなくなってしまうのは、やりすぎです。それは「嫌だ」ということが明確になりました。


我慢してまで、モノを減らしてやることではありません。まぁ、実験的に、試験的にやってみるのもいいし、どこまでが自分にとってのデットラインか?それを見極めるためにやっていくのはいいですが、無理と分かったら、ミニマリズム、ちょっと立ち止まって、俯瞰してみてみるのが良きです。


自分を苦しめてまでやることではないですよね。(そういうのが好きな人なら、そうでもないのかもしれませんが・・・)


それでは、また。

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