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仲良くなりたい人へ、なんとかして踏み込みたい

ぐっと踏み込むのは、いつだって勇気がいる。

それは例えば、新しい環境に踏み出すときもそうだし、もっと仲良くなりたい相手に近づくときだってそう。自分のことを認知してもらいたい、ただの話相手じゃなくて「あなたのことをもう少しだけ知りたい」という気持ちを足にこめて踏み込むのは勇気がいる。

でも、これは私側の話だ。相手にとってはどうなんだろう。


私が踏み込む足にどれだけの気遣いや配慮をのせたとしても、それはきっと足りないだろうな、とそんなことを考える。靴を脱いで、ドアの前できちんと靴を揃えて、「こんにちは」と挨拶をして踏み込んだとしてもそれは、これだけ配慮をしましたよと私だけ満足して終わってしまう行為になる気がしてしまう。


主語を大きくしてみると、日本人は相手に踏み込むのが苦手だ。

そしてそのことに慣れてしまっている人も多い気がする。つまり、自分も踏み込まないから相手からも「踏み込まれないだろうな」と思っているということ。だから踏み込まれたときにウッとなってしまう。下手すれば「なんと失礼なやつ」と思われるかもしれない。


そうなりたくなくて、要は嫌われるのが怖くて、今、何もできないでいるのは私だ。

こんなに言葉をこねくりましてずらずらと考えてるふうにして、結局言いたいことは、嫌われるのが怖くて踏み込めない。ただそれだけだ。

相手に対して仲良くなりたいとか、知りたいとか、私の欲が高ければ高いほど、怯えてしまう。

踏み出すだけの一歩が鉛のように重いし、目の前にある川がまるで黄河の川幅のように遠くて向こう岸が見えていない。踏み出したら落ちるかもしれない、そう思うと怖い。きっと私に、アナ雪で一人になったエルサが階段を作るような力はない。橋を作れないから、私は途方にくれて川幅を見みつめたあと、向こう岸のことを考える。

一人になったエルサが氷の力を使って、瞬時に階段を作るこのシーンのこと。

そんなふうにうだうだ考えて、結局踏み出さないと何も始まらないんだよなあとスタート地点に戻ってくる。

みんなどうやって人と仲良くなったり、相手のことを知ったりしているんだろう。

無造作に、無尽蔵に、無礼講で許されていた子どもの頃に戻りたいなと思う。大人になると配慮や心遣いがなければ相手を傷つけてしまう。でもそうなると、傷つけないように考えなければならない範囲がどんどん拡大する。男女に区別しない中性的な言葉、自分とは違うかもしれないこれまでの環境。私が当たり前だと思っていることは、相手にとっては当たり前ではないかもしれないこと。

考えすぎた自分の配慮が、どんどんと私の足を地面に固定していく。


”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。