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シュガー・ボーイ、オフィスカジュアルの幻想


 朝食に熱くてほろっと苦いブラックコーヒーと、マネケンのベルギーワッフルを食べる。むう。ヤミー。ささやかな、しやわせ。“甘過ぎないところがいい”と思うようになったあたり、僕も少しは大人になったのかも知れない。ひとよりだいぶ遅いと思う。ごく最近まで「甘いほうが良いに決まってるさ!」と心の中にいる少年がうるさく強硬に主張していた。僕は長い間それに反論する論拠を持ち合わせなかったし、また心から彼に同調してもいた。野球のユニフォームを着て肩にバットを担ぎ、赤毛でそばかすだらけの彼を、どうしても嫌いになれなかった。


「甘い、イコール、うまい」
「ねえ、そうでしょ」
「糖分は疲れに効くんだ、みんな知ってるさ」
「チョコレートシェイクと青汁、どっちがいい?」
「ねえねえ!」


 ぱらぱらと小雨が降る。気づくのが遅く、干してあった洗濯物をばっちり濡らした。かめへんかめへん、別にええよ。も一度洗えばいいだけのこと。右の頬を張られたら左の頬も……なんとか言うしな。


 夕方に渋谷本社へ。どうしても必要な用事がなければこんな街来ることもないだろう。僕は渋谷を好いていない。渋谷の方でも、僕なんかにはほじり出した鼻糞ほどの興味も持ってない。それでいてお互いにお互いを軽蔑している。井の頭線の方へ歩き、岡本太郎の『明日の神話』の下を横切ってマークシティウエストへ。全面ガラス張りの廊下から見える景色に思わず見惚れる。ちょっとした展望台だ。中野方面の空に宵の明星よりも明るく輝く星があって、見ていると激しく瞬き次第にじりじり大きくなる。ヘリだろう。偶然寸分のズレもなく真っ直ぐこちらへ向かってくるから、ライトが星のように見えるのだ。


 打ち合わせを終え女性担当Nさんと話す。僕はどうでもいい話をまくし立てた。

「……でもオフィスカジュアルって幻想だと思うんですよね、なんか、定義がないまま流通しちゃったし、だいたい対義語がない、というのも非常に胡散臭いわけです、オフィスフォーマル、とは言わないでしょう? オフィスカジュアルで来てください、ドレスコードはオフィスカジュアルです、って確かに困るんですよ。だって定義がないんだもの。なにそれ? カジュアルとは違うの? て話ですよ。あ、でも定義がないまま流通ってのは言語の成立過程としては当然なのかな。いつだって人間同士の対話交流のぶつかりあいの中から新しい言葉が生まれて、それを後から辞書が追っかける……じゃあそれはいいですよ、良しとしましょう」
 「僕だってね、本当は分かってるんですよ。オフィスカジュアル、どうせ“スーツでがちがちに固める必要はないけど、仕事に臨む良識ある大人として華美になり過ぎない、良識ある服装”とかそういうことでしょう?」
 「でも、でもね、聞いてください、大事なところですよ、僕がオフィスカジュアルって言葉を聞く度に真っ先にイメージするのが、ダスティン・ホフマンなんです。『クレイマー・クレイマー』とかあの頃の。どうしてかは自分でも分かりませんが」
 「いいですか、思い浮かべてください、彼は明るいブラウンの、コーデュロイのスーツを着ています。くったくた・・・・・のです。それに例え道に落ちていても誰も見向きもしないような馬糞・・みたいな革靴を履いて、素材感のあるタイはきっと誰かからのプレゼント、元は素敵でお洒落だったと偲ばれますが、今では見る影もなくよれよれ・・・・です。髪は伸び過ぎ、明日には襟足が肩に届きそう。わかりますか? これが僕のオフィスカジュアルなんです・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ダスティンはその格好で、短い脚を馬糞みたいな靴と一緒にデスクの上に高々と上げて組み、机のへりにはなみなみとコーヒーの入ったマグカップが今にも落ちそうな感じで危うく乗っている、そして彼は昨日付けの競馬新聞を読んでいる。それが僕のオフィスカジュアルなんだっっ………………ええ、済みません、ちょっと興奮してしまって…………要は僕が言いたいのは、未完成な不出来な言葉から人がイメージするものはそれぞれ全然違うかもしれないってことなんです」


 「でも彼女はオフィスカジュアルの認識が甘い、のではなくて、ドレスコードを守ろうという意識がすっぽり欠落していて、ただ単に好きな格好で会社に来る人、のように思えるけど」と、Nさん。

 「あ、ですよね」僕。


 まあくすっと笑わせられたから70点。



 眠れなくなるのは困るが、寝る前にコーヒーをブラック・・・・で飲む。シュガー・ボーイは沈黙している。ねてるのかな。ひょっとしたら、と僕は不図思う。ひょっとしたら、大人になったのは僕じゃなくてなのかも。今頃アメリカ東海岸の高層ビルに入った清潔なオフィスで、ばっちりオフィスカジュアル・・・・・・・・・で決めて、ばりばり働いたりしてるのかも。オフィスラヴ・・・・・・に精を出したりなんかして。



 それでも僕は時折、あの鼻にかかってかすれた、声変わり前の細いやんちゃな声を、無性に聞きたくて堪らなくなることがある。

 そんな時にはコーヒーに角砂糖をひとつ入れる。それから、もうひとつ入れてみる。

 「ねえねえ!」