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Infinity 第二部 wildflower39

「……助かったな」
 はあ、と大きなため息とともに耳丸が言って、やれやれと持っていた剣を置いた。礼は座り込んでいたが、立ち上がると耳丸のそばに来て座った。
「怪我はない?噛み付かれたところはどうなっているの?」
「あれは、持っていた袋に噛みつかれただけで、俺の手を噛んだわけじゃない。大丈夫だ」
 礼はほっと胸をなでおろした。
「なぜ、木から降りてきたんだ?もし、山犬に襲われていたら、俺は助けられなかった」
「だからって、耳丸一人をあんな危ない目にあわせて、私一人が木の上で見ていられるわけないわ。もう無我夢中で、木から飛び降りていた。何ができるというわけではないけども」
「いや……助かったよ」
 耳丸は無意識のうちに右手首をさすっているのを礼は見咎めた。
「見せて」
 礼は手を出した。
「手をついて痛めたみたいだ。そんな大事ではない」
「いいえ。どんな怪我でも甘くみてはいけないわ。見せて」
 礼に言われて、耳丸はおずおずと右手を差し出した。礼が下から受け取ると、持っただけで耳丸は顔をしかめた。痛みが走ったのだ。
「痛そう。腫れてきているわ。冷やさないと。歩ける?」
 礼は耳丸に立つことを促した。手がつけないから、支えてやりながら耳丸を立たせて、松明を持つと小川に向かった。
「手を浸けて」
 小川のほとりで礼は耳丸と膝をついて、耳丸は水の中に右手を入れた。冷たい水が痛めた右手首の熱を取っていくように思えた。耳丸は座っているのが面倒に思って、柔らかい草の上に寝転がってうつ伏せで腹ばいになり、肘から下を水の中に浸けた。礼は手を洗い、ひたひたと手ですくった水で顔や首元を冷やす。
「耳丸、こっちを向いて」
 礼の声に、耳丸は顔を向けた。水に浸した手ぬぐいを持って、礼がすぐそばに膝をついた。礼の手が伸びで、耳丸のこめかみから頬にかけて、冷たい水でぬぐってやる。耳丸が何も言わないので、礼は手ぬぐいを水に浸しては耳丸の顔を拭うことを数度繰り返す。松明の火の粉と煤を被り、獣と対峙した時の緊張から吹き出した脂汗で耳丸の顔は汚れていた。冷たい水と礼の優しい手で、顔がさっぱりして気持ちが良い。その同じ調子で撫でられるその動きは、やめろとは言い難く、気持ちは穏やかになる。礼は心配そうに耳丸の様子を見ながら、この旅の苦労に引き込んだことを詫びるように、耳丸をきれいにしてやるのだった。
 顔をあらかた拭き終わると、礼はまた手ぬぐいを水に浸して次には耳丸の首筋へ、そして鎖骨から胸へと手を移動させた。山犬との格闘で耳丸の服装は着崩れて、前を止めていた結び目は解けて、下に着ている単から胸が現れていた。単はぐっしょりと濡れて、肌に張り付いている。首から下は、手ぬぐいを堅く絞って、拭いてやる。一度拭いて、また小川に手ぬぐいを浸して、同じように今度は反対の首筋から拭いて、胸の上に来た時に、耳丸は礼の手を掴んだ。
「どうしたの?」
 何気なくいう礼に、耳丸は恐くなった。礼の優しい手が耳丸をどんな気持ちにさせているのか、全くわかっていないのだ。束蕗原の去の元で、病人やけが人を看護していているのと同じように思っているのだろが、ついさっき、二人で死線を越えたばかりだ。耳丸は単なるけが人の気持ちだけにはなれない。礼が耳丸の命を思いやり、木の上から飛び降りて山犬を追い立てる勇敢な様が瞼の裏に蘇る。耳丸には自分の中の礼との距離が縮まっていくのを、まざまざと感じるのだ。自分一人に向けられる礼の態度に自分が引き込まれていくのが恐くなるのだ。礼は、何も思っていないとわかっているのに。
「考えれば、体中、汗や土で汚れている。このまま小川に入って水浴びすればいいんだ。あんたの手を煩わせることもない」
 礼は耳丸の腰紐を解くために手をやった。礼の行動はどこまでも耳丸の手首の負担を考えてのことだ。
「大丈夫だ。自分でやる」
「そう。では、私は馬を連れてくるわ。水を飲ませてやらないと」
 夜中の格闘から時は過ぎ、すでに夜明けになっていた。
 耳丸は礼が立ち去ると、衣服を脱いで小川の中に入った。
 小川の冷たい水と流れが、礼の優しい看護の手の感触の名残と合わさって、格闘の緊張を解きほぐしていき、心地よい感覚をくれる。
 しばらく川の中でたゆたっていると、川上で馬の嘶きが聞こえた。そちらの方へ顔を向けると、礼が馬二頭を川のほとりに連れてきたところだった。馬たちが小川に口をつけて水を飲むのを見守っている。
 耳丸は川から上がると、手早く着替えをして、礼の元に行った。
「あんたも、水浴びをするか」
 耳丸に言われて、礼は汚れた自分の姿を見て浴びたいと思った。
「手首を冷やすこと忘れないようにね」
 そう言い置いて、礼は立ち去った。
 耳丸は幼き子供が母親の言いつけを守るように、礼の言いつけ通りに手首を川の中へと浸けて冷やした。
 川下に目をやると、礼の姿が見えた。礼も考えたようで、小川のほとりに草が茂っている影に入って目隠しにして、そこで衣服を脱いだようだ。小川は緩やかな流れで、深くない。膝を折って座っても、腹あたりまでしか水はない。礼も随分と日焼けをしたが、衣服で隠れているところはさすがに白く、今、その真白い背中が上下しているのが見える。じっと凝視している自分に気づいて、耳丸は視線を外した。
「耳丸」
 ゆっくりと草を踏む音がして、礼が現れた。いつもの通り、旅の間着通している男の装束に身を包んでいる。
「手首はどう?」
 礼は耳丸のそばに座って見せて、と言うようにまた手を出した。耳丸はもう言われるままに従った。
「薬を塗っておこう。無理はしないように」
 礼は、命の次に守っている薬箱から何やら出してきて、耳丸の手首に塗っている。その後、きれいな白布を出して耳丸の手首に巻く。
「少し我慢をして。固定をした方がいいから」
 礼は声をかけながら、要所に少し力を入れて手ぬぐいが動かないように結んだ。
「ありがたいもんだな。あんたの医術の知識は、この旅には必要だったな」
「そう?……ならば、全て実言のおかげよ。実言が私を束蕗原に導いてくれた。そうでなければ、私は医術の道など知る由もなかったし、そもそもこの旅に出ることもできなっただろう。私は、実言に導かれてここまで来られたのだ」
 礼はそう言うと悲しそうな、しかし、しっかりと前を見据えて、笑みを浮かべた。
「……ああっ。ここまでこうして来られたのは、耳丸のおかげよ。あなたがいなければ、この旅は始まらなかった。感謝している」
 耳丸には取ってつけたような言葉に思ったが、礼はおどけた物言いをしたけども、真剣な目を耳丸に向けて頭を下げた。
 ここまで来られた、とは、実言と共にここまで生きてきたということを言ったのだ。
 耳丸は、自分の財産を失ってでも、耳丸を利用してこの旅をするこの女の強さを思っている。男は実言一人ではない。実言がいなくても、代わりはいくらでもいるはずだ。確かに、礼は隻眼のために容姿に難があるかもしれないが、この女の明るさや、優しさ、気負うことなく飾り気のない態度に親しみを覚える男もいるだろう。正妻にこだわらなければ、実言とは違った幸せを得ることができるはずだ。このような旅に出ずに、束蕗原でじっと実言の帰りを待って、実言が帰らなければ違う人生を考えるのも一つの道だ。しかし、礼は苦難の道に進んで、しかも自分の手で実言を救うというのだ。正気の沙汰とは思えぬその行動も、その熱意と覚悟に今では認めざるを得ないと思う。
 礼は、久しぶりに実言と自分のことに思いを馳せた。実言は礼に医術を習得してほしいなんてことはこれっぽっちも思っていなかっただろう。ただ、都に置いたままにできずに、都から近からず遠からずのあの場所に領地を持っていた礼の叔母の去に預かってもらうことを思いついたのだ。自分が南方の戦から帰ってくるまで、ひっそりと隠しておくための隠れ蓑。
 しかし、礼は従姉妹の許嫁だった実言に親しめず、心の中でいないものにした。その代わりに去の仕事への面白さや奥深さにのめり込んでいった。実家との縁が薄くなり、もう実言しか頼れない状態でも、実言から自由になるために医術を必死で学んでいた。実言から離れるために学んだものだったが、今では多くの人を助けている。それは、岩城家の使用人たちに広まり、やがて宮廷へと行き着き、大王の妃たちを助けた。その後それは礼を窮地に追い込み、実言を死地へと向かわせたが。
 だが、やはり後悔はなく、実言の導いてくれた今の自分でいいと思うのだった。絡まる蔦のように、礼は実言の周りをくるくると回りながら、実言を守っていきたいのだ。
 耳丸と目が合った。礼は、自分がどんな顔をしていたのだろうか、と心配になった。実言のことを考えると、こんなに苦しい思いをしていても、ゆったりと落ち着いた気持ちになれる。
「十分に体を休めることもできなかったが、先を急ごうか」
 耳丸は、礼の表情など気にしていないようで、現実的なことを言った。
 二人は馬に乗り、ゆっくりとした足取りで、先の道を進んだ。
 耳丸は集落を探した。昨夜のことを考えると、屋根のある場所で休みたいと思ったからだ。数件の家が集まる集落を見つけると、耳丸はその中の倉でも、軒先でもいいから貸してくれと交渉した。集落のものたちは、皆気の優しい者たちで、快く倉の中に泊めてくれた。
 礼がずいぶん遠くに来たものだと思うのは、耳丸が話している集落の年長者の言葉がよく分からないのだ。耳丸も何度か同じことを言ったり、違う言葉を言ったりしている。その土地の言葉や訛りに、都から遠く離れた場所に来たと感慨深く思った。
 ここまでくれば、夷との戦いの最前線である沢崩の戦の支援をしている若田城までは三日もかからない。耳丸は持っていた米を集落の者に渡して炊いてもらった。今夜、倉に泊めてくれるお礼にと集落の者たちにも分けた。集落の者から青菜の塩漬けと汁を分けてもらえた。礼と耳丸は二人で食事した。質素ではあるが器に入ったものをゆっくりと食べるのは久しぶりのような気がした。礼はこんもりと盛られた飯を腹一杯になったのか、残して握り飯にしている。
 今の時期、倉の中に入れている穀物などなく空っぽの状態だ。土の上に貸してもらった筵を敷いて、横になった。
 礼は、壁のある中にいることに安心した。どんな時でも、野外は何が起こるかわからない。今夜は安心して眠れると思った。
 礼は瞼を閉じてまどろみに落ちるすんでのところで、あの声がした。
 昨夜の悪夢の元凶である山犬の遠吠えである。
 礼は身じろぎし、それに反応するように、耳丸が上体を起こした。
 月明かりが、壁板の上の方をくり抜いた小さな窓から差し込んでいた。淡い光の中で、二人はじっと耳を澄ました。
 遠吠えはしばらくしてまた聞こえた。礼も体を起こした。
 山犬のその声はまだ遠くだ。近づいて来ているようには聞こえない。
 食事をもらう時に、集落の者に山犬のことを聞いたら、近づかせないように仕掛けをしていると聞いた。
 二人は上体を起こしたままじっと静寂の中で音を窺っていると、耳丸は礼が震えていることに気づいた。言葉をかわさず、じっとしている間に礼は昨夜の恐怖が蘇ってきたようだった。
 撃退し終わった後、ことさら山犬の凶暴さや恐ろしさについて話すことはなかったが、礼にはあの時の恐怖が心の中に深く傷のように刻まれたようだ。礼も震えていることに気づいて、自分の体を抱くように両手を回して腕を握った。しばらく我慢しているが、やはり震えが収まらない。
 二人で筵の上に横になっていたが、そこには間があり、気安く共寝するような格好ではない。耳丸は尻を浮かせて、筵の上を移動し、その距離を縮めて礼に近づいた。礼の横にくると、ゆっくりと肩に手を回した。そっと乗せて、少しだけ引き寄せた。
 礼は、耳丸の手に気づいているだろうが、じっとしている。少しして、礼自身も耳丸の胸に寄り添った。
 次第に礼の震えは小さく、間遠になり、収まった。
 礼は、心ばかり傾けた体を起こし、耳丸の顔を見上げた。
 耳丸は、自分を振り仰いだ礼の右目と目が合った。瞳の奥で集まった月の光がきらりと光って、美しく、無垢に見上げるその表情は礼の可憐さがにじみ出ていた。
 耳丸は自分が大それたことをしていると後悔し始めた。
 なぜ、自分は礼を抱き寄せるようなことをしてしまったのだろう。言葉でなぐさめたり、励ますことができただろうに。
「ありがとう、耳丸」
 礼の言葉に、耳丸は礼の肩に置いた自分の手を下ろすことができた。
「山犬もここまでは来ない。休もう」
 耳丸は、礼から離れて自分が元いた場所に帰ると、すぐに横になった。同時に礼も横になり、二人は目を瞑った。

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