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Infinity 第二部 wildflower34

  礼と耳丸は馬に乗りひた走った。北へ北へと。そしてもう一晩の野宿をして、翌日の未刻(午後二時)頃、佐田江の庄の集落へと着いた。ここまで来るのに、できるだけ安全を考えて大きな道を通ってきて、大きな集落もあったが、近寄らないようにしてきたため、久しぶりに自分達以外の人と出会った。しかし、礼の姿は男の装束であるため、不用意に声を発して女が化けていると知れてはいけないため、礼は首回りを隠すように布を巻いて、口をきかないように申し合わせていた。
 耳丸が聞いた。
「礼、皆の前ではお前をなんと呼んだらいいだろうか。男の名前だが」
 礼は少し考えて。
「瀬矢」
 と言った。
「瀬矢?」
「そう。……私の二番目の兄の名。病で亡くなってしまったけど。とても頼りにしていた人だった」
「では、瀬矢。これから俺は佐田江の庄の岩城の館に行ってくるから、お前は待っていてくれ」
 道の向こう側に大きな門がある。そこがこの土地の岩城邸の入り口だが、そこから突破するのではなく、まずは耳丸一人が別の入り口から入って、見知った者を見つけてくるというのだ。
 礼は館の正面入り口の見える前の道の反対側で待っていることになった。馬を繋いでおける場所や、小川が流れていてちょうどよかった。
「一人にしてしまうけど、くれぐれもどこにも行ってはダメだ。もしものことがあったら、真っ先にあの門に向かって走れ。入ってしまえば、あとはどうにでもなる」
 耳丸は最後にぎろりと礼を睨みつけて言った。礼は馬に隠れるように小さくなって、頷いた。
「そんなに時間をかけない。すぐに戻ってくるから」
 耳丸は大きななりを縮めることもせず、ここ佐田江の庄の岩城の館を巡る築地に沿って建物の裏手に向かって歩いて行った。
 礼は耳丸を見送って、館の正門へと目を向けた。門では人が行ったり来たりする姿がよく見える。大きな荷車が人々の手で押されて入っていく。ここは海が近いから、海産物をとって、都に運んでいると耳丸が言っていた。都と束蕗原の庄しか知らないため、ここ佐田江の庄の趣きは今までに見たこともなく、興味深いものだった。時折聞こえて来る話し声も、言葉がよく分からないこともある。礼は自分が本当に遠くに来てしまったと思った。
 ぼんやりと往来の様子を眺めていると、強く肩を揺さぶられた。そこで、礼は自分が眠っていたことに気づいた。
「礼。用心しろ!」
 耳丸が鋭い声を出して、こちらを見下ろしている。
 旅の疲れが出ているのか、木に寄りかかってウトウトしていたらしい。
「岩城の従者の知り合いを見つけた。なんとか、一部屋確保できたから、そこへ行こう」
 耳丸は馬の手綱をとって、礼に立つように促した。築地塀に沿って裏手に回り、門にたどり着いた。そこには一人の中年の男が立って待っていた。
「実言様のお遣いだって?実言様もいろんなことをお考えだけど、お前を後から遣わすことになっていたのか」
 男は耳丸が持つ手綱の一つを受け取り、しゃべり続ける。
「この人が、お医者なのか。なんと!」
 男は馬の後ろから現れた礼を見て言った。
「なんと、小柄な。そして、片目なのかい?」
 男は不躾な視線を礼に向けた。
 礼はこの男に耳丸が自分を医者と言ったことだけはわかった。
「片方の目を失っているが、腕はいいのだ。さあ、部屋に案内してくれ」
 耳丸は、面倒くさそうに言って男を促した。
「はいはい」
 男も真面目に取り合わず、軽口をたたきながら厩に馬を繋いで、従者たちの部屋が並ぶ屋敷へと向かった。空き部屋の中に入ると、そこは狭い部屋だが、物といえば衝立障子が部屋の隅に置いてあるだけで、がらんとしているため広く見える。
「では、何か食事を持って来させよう」
 と言って、案内してきた男は、部屋を出て行った。
「すまない。ご面倒をかける」
 耳丸は頭を下げて、男を見送った。
 礼は担いでいた荷物を置いて、ぺたりと座り込むと、動けなくなった。
「礼?」
 礼は無言のまま、荷物を肘掛代わりに寄りかかり、黙っている。
「どうした?」
 廊下を歩いてくる衣擦れの音がしてきて、礼たちの部屋の前で止まった。
「失礼します」
 と言って、戸が開き、屋敷の女中が二人入ってきた。手には膳を持っている。
「お食事をお持ちしました」
 取り澄ました女中の一人が耳丸の前に膳を置いた。その時には、荷物の上に伏せていた礼も体を起こしていて、別の女中が礼の前にも膳を置いた。膳の上には、粥の入った椀と野菜の載った皿が二つある。そして、銚子と杯も用意されていた。あの男が気を利かせてつけてくれたようである。
「どうぞ」
 耳丸の前に膳を置いた女中は杯を差し出し、耳丸が受け取ると、杯になみなみと酒を注いだ。礼の前の女中も杯を差し出しているが、礼は受け取ったものか迷っていると。
「その方は、酒はおやりにならない。あとは、勝手にさせてもらうから、下がってくれ」
 耳丸が言うと、女中たちは渋々と立ち上がった。
「突き当たりの詰所にいますから、何かあったらいつでも声をかけてくださいね。お二人は都から来られたのでしょう?都の話でもお聞かせくださいな」
 二人はくすくすと含み笑いを残して、部屋を出て行った。
 二人の気配が遠ざかるのを待って、耳丸は杯をぐいっとあおった。
「礼。食べよう」
 礼は元気なく頷いて、匙をとって粥を掬った。しかし、粥は食べたが、ほかのものには手が動かず、礼は箸を置いた。
「耳丸、少し横にさせてもらっていいかしら。だるくて仕方がないのだ」
 耳丸は礼を部屋の奥の方に横たわらせて、隅にあった衝立で自分と隔てた。耳丸は礼の分まで膳の上のものを食べると、自分も横になって眠った。
 耳丸は目を覚ました。時刻としては、酉刻(午後六時)くらいだろうか。格子からまだかすかに陽が射している。衝立の向うの礼の様子を伺うと、壁の方を向いているので顔は見えないが、まだ眠っているようだ。
 旅は礼の体のことを考えて、割とゆっくりとここまで来たつもりだった。礼も、文句ひとつ言わずについてきたが、相当体には堪えていたのだろう。疲れが溜まっていたと見える。
 耳丸は音を立てないように、立ち上がり重ねた膳を持って部屋を出た。廊下を進んで、突き当たりの部屋の中の様子を窺った。几帳の陰から中を覗くと、耳丸の前に膳を置いた女中と目が合った。
「あら、お呼びくだされば参りましたのに」
 女中は立ち上がって、耳丸を部屋の中に入れ、持っている膳を受けとった。
「もう少ししたら、お夜食をお持ちしますわ」
 いたずらな視線を投げかけて、女中は言った。耳丸は意味深なその視線をかわすようにすぐに目をそらして、「よろしく頼む」と言い置いて部屋を出て行った。
 ここには今日と明日滞在して、そこからは北方の夷狄との最前線である若田城まで行くつもりだ。ここ佐田江の庄のある美田国(みたこく)から若田城のある羽越国(うえつこく)まで二つの国を越えていく。その間には岩城家と関わりのある者もおらず自力でたどり着くしかない。耳丸はここから北の地域の情報を得ようとあの男を探した。
 男は、都の岩城家に耳丸と同様に仕えている者だった。耳丸は実言に仕えているが、男は本家の家令(かれい)から指図を受けているのだった。今はこの佐田江の庄から都に送る献上品や特産物の手配などをしているとのことだった。これより北の土地から届けられる物資もあるので、北隣りの佐渡(さわたり)国の情報が得られるかもしれない。
 男の柿麻呂という名前を頼りに探し当てて、いろいろと話し込むと時刻は亥刻(午後十時)になろうとしていた。思いのほか時間が経っていてそろそろ話を切り上げて部屋に帰ろうとすると。
「酒でも持って来させるぞ。もう少し、いいだろう」
「いや、あの方が待っておられるだろうから戻る」
「片目の?……あの方は誰なのだ?」
「医者だと言っただろう」
「そうだが、なぜ、あの医者を連れて北方に行かなくてはいけない。実言様がお呼びになったのか?」
「……そういうことだ」
 実言が直接呼んだわけではないが、礼の夢に実言が現れるというから耳丸は頷いた。
「高名な医者なのか?小さくて、若くて駆け出しの医者に見えるが」
「実言様には、必要な医者なのだ」
「ここいらにも、旅をする医者はいるが、どれもニセ医者で信用して診てもらって、体を壊した者がいるからな。信用できる人を都から呼ぶことは必要かもしれない。しかし、北方は遠いし都とは大違いに険しい厳しいところらしいから、呼ばれておいそれと行く者もおるまいよ」
「そう考えれば、あの方は奇特な人なのだ」
「そのお方の付き添いをするお前も、またその類だろうに。まあ、お前は実言様あってのお前だろうから、実言様の言いつけとあれば、否とはいうまいが」
 耳丸はあいまいに頷いて苦笑した。
「そういえば、実言様の奥方も片目と聞いたな。お見かけしたことはないが。あの医者も片目とは、偶然としても珍しい」
「そうだな」
 適当に返事をしながら、あれがその奥方だよ、と心の中でつぶやく。
「では、そろそろ戻るよ」
 耳丸は与えられた部屋に戻る途中に、突き当たりの女中の詰所となっている部屋へ入って、灯台を借りた。昼間に部屋に来た女中の姿は見えなかった。
 ほの暗い明かりを頼りに、耳丸は部屋の中に静かに入った。
「礼」
 ささやき声で名を呼ぶと、衝立の向うで身じろぎする気配がした。灯台を衝立の近くに置くと、その向うにいる礼の姿が浮かび上がった。
 女の体と悟られないように着込んでいたものをすっかり脱いで、帯も緩めて横になっていたのを、起き上がると同時に上着を肩にかけている。
「耳丸……私、寝入ってしまったようだ」
 礼は起き抜けで頭の中がはっきりとしない。明るくなった室内の衝立の向うに耳丸の姿を見つけて、見つめた。
 耳丸は、礼の潤んだ目ややつれた頬を盗み見た。
「ほら。水だ」
 水の入った椀を押しやると、礼はしっかりと座って椀に口をつけた。
「今は何時だろうか?一度目を覚ましたのだが、またすぐに眠ってしまった」
「今は、亥刻(午後十時)を過ぎたころだろう。これからの旅の方が長いのだから、体をしっかりと休めたらいい」
「……そうね」
 部屋の中の明るさにも慣れて、礼は衝立の後ろで身仕舞いをしていると、廊下を歩く静かな足音がした。
「失礼します」
 声と当時に妻戸が開いて、昼間の女中二人が入ってきた。礼は、慌てて身をふせた。
「お食事、お持ちしましたわ。柿麻呂さんから客人をおもてなししろと言われていますから。どうぞ、召し上がって」
 よく喋る方の女中が耳丸の前に膳を置く。
「あら、もうおひと方は?」
「あの人は、あちらでお休みだ」
 耳丸は衝立の向うに目をやりながら答えた。
 女中が持ってきた膳の上には、昼間より少し豪勢になって、魚が載っていた。
「どうしましょう?せっかくお持ちしたのに……」
「そこに置いて行ってくれ。後ほどいただくから」
「そうですか」
 女中たちはつまらなさそうな顔をして、その場に座っている。
「ありがたくいただくが、まだ何かあるか?」
「まあ、ひどいわね!都のお話、聞かせてくださいな。久しぶりなのよ、都から人が来るなんて!一年前くらいだったかしら、ここを管理している一族の若様が都から来られたわ。北方の戦に行くとかで、大勢の家来を引き連れてこちらにお泊りになったけど、それ以来大した往来はないの。定期の荷物の行き来だけで、それは退屈していたのよ」
 女はそう言って、後ろに控えるもう一人の女中を振り向いた。用意していた酒の杯を受け取り、それを耳丸の手に持たせると、後ろにいた女中が前に出てきてその杯に酒を注いだ。
「その時は、私たちや近くの村からも女が手伝いにきて、いろいろと世話をしたものだったわ。都からきた男たちにみんな色めき立って、騒ぎになったのよ。いろいろと都の話を聞かせてもらって、行ってみたいと思ったものだったわ。広いお屋敷。いろんな土地から来る見たこともない食べ物。着るものはみな美しくて、都の女はみな綺麗だと聞いたわ」
 ねぇ。ともう一人の女に相槌を求めた。
「でも、ここに綺麗な女がいない訳じゃないのよ。国司の娘や、ここら一帯を治めている一族の娘なんかを、その若様のそばで世話させるっていうので、すったもんだしたって聞いたわよ」
 ねぇ、とまた顔を見合わせて頷きあう。
「それは、お近くでお世話していたら、その若様に気に入られてその晩のお伽をすることになるかもしれないでしょ。次の日は、その話で持ちきりだったわ。若様は十日ほど滞在されたから、毎日同じ人なんてダメだって喧嘩になっちゃって、お側に座る順番も争ったとか」
 ねぇ、と二人は顔を見合わせた。
「でもねえ、若様は戦に行く途中だから、都には連れて行ってもらえない。みんな悔しがって、お帰りの時には立ち寄ってと思っているけど、戦はまだ終わらないからそう待ってもいられないみたい」
 耳丸はちびりちびりと杯の酒を飲んだ。少し減ると、すぐに銚子を持った女中が注いでくれる。
 女たちが話す一年前に戦に行く途中に立ち寄った若様とは実言のことだろう。耳丸がわかっているのだから、礼にもわかっている。いや、礼はこの話に耳をそばだてて聞いている。実言がどんなふうに北方に向かったのか、一つも聞き逃さずに全身を耳にしているだろう。しかし、この話は礼には苦しい話かもしれない。嘘か本当かはわからないが、実言が毎夜この土地の有力者の娘を相手に酒を飲んだと言うのだから。
「どうしたの?あら、やだ、若様の話なんて、あなたにとっては面白くないわよね。でも、一年前はひどい騒ぎだった。その時から都はすごいところなんだって思ってねぇ。柿麻呂さんがたまに都に行った時の話を聞くくらいじゃ物足りなくなって。一度でいいから行って見てみたいの。そのためならなんでもするよ」
 と言って、女は流し目で耳丸を見た。
「都からここまで、三、四日かけてきているのでしょう?お疲れでしょうに。体でも揉んで差し上げますわ。あちらの方も、一緒に」
 と、言って、女は耳丸の腕に手をかけた。もう一人の女は、礼のいる衝立の向うを覗く様子を見せた。
「いや、そちらの方は旅でお疲れなのだ。そっとしておいてくれ」
 耳丸は礼が女であることがばれることを恐れて言った。
「あら。でも、私たちをこのままというもの面白くないわ。あなたはどうなの?私たちの部屋に行きましょうよ。そこなら、気兼ねなくお話できるわ。体も揉みますわよ」
 ねぇねぇ、と女二人は同意しあい、耳丸の両腕をとって立ち上がらせようとする。耳丸は、無理やり部屋に入れてもらっているし、女たちも悪気があってのことではない。自分が女たちの部屋に行けば、礼もゆっくり休めると思い、仕方なく立ち上がった。
「お酒を召し上がりながら、ゆっくりとお話しましょう」
 女二人は膳を持ち上げ耳丸の背中を押して部屋の外へ出て行った。

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