米津玄師のビジュアルに宿る美しき歪み
「どんな容姿も美しい」的なキャッチコピーを、化粧品やファッション業界が率先して喧伝し、時代により変化してきた美男美女の基準は多様化の名のもとに随分とハードルが下がったように見える。
だが、人々の意識はまだこの「自由な何でもアリ」には追いついていない。連綿と続く「絶対美」にひれ伏し、他人の外見を憧憬したり揶揄したり、鏡を見つめては「美しくなりたい」「美しく生まれたかった」とため息をついてしまう。
米津玄師が自己評価の低さを語る時、真っ先に口をつくのは内面的なことよりも、その容姿に対するコンプレックスであることが多い。
「自分はかいじゅうになってしまったのかもしれない」
それは、唇に今でも瘢痕が残るほどの怪我を負い、幼い”おともだち”の残酷で無遠慮な視線に晒された時に形成された自意識だ。
小さな唇の傷は心の奥深くまで浸潤し、大人になっても癒えることはなかった。
長い前髪やマスクで人目を遮断してきた彼が、ボカロP時代のインタビューでマスクを外すよう促された時「マスクしてると落ち着くんですよ…」と渋々応じていたのが印象に残る。
有名になっていく過程でもなかなか顔を露わにしない米津に対し、卒アル画像の流出、写りが悪い写真の拡散や整形疑惑など、ネット上での「顔面いじり」が横行した。
それは嫉妬と好奇と悪意をないまぜにしてエスカレートしていく。
Lemonの大ヒットにより、隠せば隠すほど暴きたくなる心理が過熱。アワードの授賞式では、ここぞとばかりに集まったマスコミに写真を撮らせなかったことが物議を醸したこともあるという。
全国的に顔が売れ、押しも押されぬトップアーティストになった今でも、髪で目を覆い、話をするときに何度となく口元に手をやる仕草が目立つ。
このツィートが件の怪我についてのものかは不明だが、少なくとも彼が幼少期に大きなトラウマを抱えてしまったことは間違いないだろう。
さらにこんな極論めいたツィートまで残している。
歪な形で生まれてきたという強固な自意識
容姿のコンプレックスは顔だけではない。日本人の平均身長を遥かに上回る188cmの長身。人も羨むスレンダーなボディに細長い手足は常にオーバーサイズの服で隠されいる。
チビ・デブ・短足に悩む人が聞いたら「喧嘩売ってんのか!」とも取れる発言だが、本人にとっては幼い頃からの根深いコンプレックスがその背を丸め俯かせてきた。
その根底にあるのは「やっぱり自分は生まれた時から普通じゃなかったんだ」という感覚。
「歪な形で生まれてきた」という自意識は、出生児の体重が4500gもある超巨大児(医学的に4000g以上の新生児を巨大児と言う)だったこと、その特異なフォルムに先天的な障がいを懸念されたこと、さらにマルファン症候群を指摘されたこと(*正式な診断を受けたかは不明)で固まっていく。
それは「悲しみ」というよりも、自身の違和感に対する答えを得た、ある種の「解放」であったかのように、あらゆるインタビューでこのことを口にしている。
この自身に向ける「歪」という言葉は、インタビューだけでなく、歌詞にも使われている。
長身でも巨乳でもそうだが、大人になれば羨望を受けるような特徴でも、思春期にはからかわれたり虐められたりと深刻な悩みになることが往々にしてある。
米津も人並外れた大きな身体について、アレコレ言われ続けてきたのだろう。2億回くらい(本人談)。おとなしく内向的な少年だった彼にはそれが苦痛ことは想像に難くない。
実際、米津玄師の外見は美しいのか?醜いのか?
普通の容姿ってなんなのか?
本人がどれだけ卑下しようが、ファンの目には「かっこいい」「イケメン」と、そのビジュアルはトップアイドル並みに美しく映る。
だが、「ただの雰囲気イケメン」「髪型で誤魔化してる」などと見るアンチも当然存在する。
公式Twitterにアップされた高校時代の両目が写っている写真を見る限り、失礼ながら”特別にイケメンでもブサイクでもない”。この顔で背が高くギターも弾けたらフツーにカッコいいしモテただろう。
その後の歯列矯正で口元やフェイスラインがより整い、綾野剛、清原翔、松田龍平、森山未來などが分類されているイマドキ人気の”ヘビ顔イケメン枠”にハマっている。
ハイブランドのコレクションラインを難なく着こなせる外国人モデル並みの体型については、文句をつけたらバチが当たるほどかっこいい。
米津はどんな顔、どんな身体に生まれていたら満足だったのだろう?平均的な体型に平凡な顔が欲しかったのだろうか?普通とはなんなんだろう?
この顔、この身体あっての米津玄師
もし彼が非の打ちどころのない黄金比的な”絶対美”を持って生まれていたら、数々の名曲は生まれていなかったと思う。絶妙な「歪さ」こそが米津の美しさの真髄なのではないか?
例えば、バロックパールのように。
そもそも、16-18世紀ヨーロッパの建築や芸術の様式である「バロック」とは「歪んだ真珠」という意味だ。それ以前の古典的な整然と均斉のとれた様式ではなく「歪」で「不規則」で「極端」な表現様式を指す。
「歪さ」に価値があるバロックパールが放つ予測不能で妖艶な光、唯一無二の流れるようなフォルムが米津玄師の姿に重なる。
米津の”顔と身体”は、彼の音楽を表現するのにこれ以上ないほどふさわしく美しいカタチを成しているのだ。
彼の姿形を構成するすべてのパーツ、その配置、動きのすべてが、米津玄師の音楽と共鳴しているように思えてならない。
複雑に響き合う不協和音のように、蠱惑的に。
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