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第一回 橋本ハム太郎の小室圭が天皇陛下になったらどうすんのと妻は言ったの巻

Twitter見てたら「ICU出身の後輩に、ふざけて「小室圭さんの先輩じゃん」と声を掛けたら「面識ありますけど、冗談抜きで天皇になるつもりだと思いますよ。マジでそういう奴です。」とか言い始めて、思わず真顔になってしまった。」っていうバズってるツイートを見つけてはははいいじゃん小室圭頑張れなんて思ったけど、天皇制ってまあガチガチに血統主義なわけで、おいそれと外部の人間がなれるもんじゃないわけですよね、とうぜんみなさんご存知のように。

だから小室圭が眞子さまと無事ご結婚できても、それでどうこうなるようなもんじゃないわけだけど、ただ、じゃあ今の陛下が公務としてやってること何なの?小室圭じゃできないようなことなの?って考えると、ありとあらゆるイベントに出席してご挨拶したりお手を振られたり笑顔振りまいたりとか、どう見ても特別なスキルが必要なわけでなくてただその場にいるっていうだけの、つまり象徴としてただ一人の男性が存在してるだけのお仕事なんだけど、それで昭和、平成と国民から反乱されることもリコールされることもなく天皇制は支持されてきてるんだから、要はアイドル顔負けの好感度一発勝負というか、かつてのような圧倒的な権力や神秘性ではなく、会いに行ける天皇という立ち位置で存在をキープし続けたわけで、その役割は小室圭にはどうだろう、ちょっと荷が重いかなー、デカいと噂のちんこ出したらワンチャンあるかもしれないけれど、というのがわたしの小室君への意見である。

平成から令和へと移行したときも、よくわかんないけど今まで頑張ってきたしもういいんじゃね?っていう国民のムードで気づいたら平成が終わって令和が始まっちゃったわけだけど、そこで出た「お気持ち」っていうのが実によくできてるというか、そもそも天皇陛下自体がなんかいい感じ、天皇いいね、うーんいいなあっていうふわっとした国民の「お気持ち」で成り立ってる。

阿部和重の『幼少の帝国』は、終戦時に撮られた昭和天皇とマッカーサーのツーショットで昭和天皇がマッカーサーに比べ小さかったから、国民は「小さい天皇」に自己投影をし、結果、小さい=可愛いという構図に気づき「kawaii」を志向する国民になった、というトンデモサブカル本なわけだけど、それを受けてわたしなりに天皇から日本文化論を考察するならば、国民は陛下の「なんもしないけど、いたら盛り上がる」という象徴としての在り方に価値を見出し、「場の雰囲気作り」こそが至上の価値だと認識、やがて日本人は「コミュ力偏重社会の形成」へと至ったのだ、という仮説を立てさせていただきます。

「なにっていうスキルはないけどなんか盛り上がるんだよね」「誰とでもいい感じの雰囲気を作るって立派だよね」といった象徴性としての天皇の振る舞い方に倣い、我々日本国民は「コミュ力」を第一に置き、そして「空気を読めない」ものを蔑ろにした。「当たり障りのないことを言う」ことこそが国民の務め、と思った。

昭和天皇は戦争やっちゃったから、だから昭和はちょっと野蛮なところもあるわけだけど(ついでに言うと昭和天皇の「責任を取らない」という姿勢もしっかりと日本人は引き継いでおります、特に保守として知られる安倍政権はしっかり引き継いでる)、平成の時代は天皇家の好感度が天井叩いちゃってるんで、とうぜん「コミュ力」「好感度」といったものを国民は第一に考えるし、現在の天皇陛下も上皇と同じ流れなので令和もそれに続きます。

問題は次の天皇ですわな。悠仁さまの在り方次第で国民性は一気に変わる可能性がある。期待してます。とりあえずわたしが今気にしているのはいつ天皇陛下は「リモート公務」をやるのか、です。これをしない限り日本にテレワークが根付くことはありませんが、リモート公務をされたら一気に日本にテレワーク・リモートワークが根付くことでしょう、ね!

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